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本物の勇気

リーダーシップに出会う瞬間

成人発達理論による自己成長のプロセス

有冬 典子 著

読了


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どんな感想を残したらいいのだろうか。

うまく言葉にできるイメージがわかない。


毎朝5時からの音読会で、エックハルト・トールの本を読んでいるからこそ、単純に受け取ることができない深みがある。



いままでの人生を振り返えると、どれほど勇気がなくて多くの現実から逃げてきただろうか

逃げるための口実を考え、その口実を正しいものにするために、理論武装をする。

この選択肢が正しいのだと、自分に他者に言い聞かせるために。

自分が作り上げる物語に、他者を巻き込みながら、後戻りできない嘘を繰り返す。


その嘘を現実にしていくために、学び続ける。

学ぶ最大の理由はここにあるのかもしれない。


たとえば、「人生はなんとかなるもの」だと信じている。

運や縁を大切に生きる。

その波に抵抗せず生きる。


この自分の信念に近い気持ちは、嘘っぱちだ。

この信念には知られたくない気持ちが隠れている。


実際は、

「人生はなんとなると信じることができれば、目の前に立ち現れる恐れから逃げてもいいんじゃないか。だって、逃げてもなんとかなるのだから。」

「ぼくは、逃げることを肯定するために、この言葉を信じる。」


それが一番正しい気持ちだ。



しかし、50年人生を生きてきて、この「人生はなんとかなる説」が、どんどん怪しくなりつつある。


なぜか。

自分の身体的老い。

両親の老い。

メッキが少しずつはがれ始めている。


この年齢になっても自分の心にあるのは甘えだ。

大人をどう定義するかにもよるが、いまだに大人になれていない。

自立できてる感触は、全然ない。


親が生きている。

それだけで、守られている感覚がある。

どれほど、大きなものを受け取って生きていることか。


その大きさの半分ぐらいは、こどもに渡せるのだろうか。


数日前にアニメ「最果てのパラディン」を視聴し終えた。

最後のほうに「本物の勇気とは何か」を問う場面がやってくる。


人は難しくて、自分は苦も無くできること。

これは、どれほど結果をだしたとしても勇気とはいえない。


明らかに自分より格上の相手に挑むことを勇気と呼ぶのだろうか。


それほどの時間軸の中で勇気ある決断をすべきなのか。


もし、神が進みたまえと命令してもらえれば、とても楽なことなのに。。。


本物の勇気とは何か。


いまだ答えのでない問いだ。





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