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本物の勇気

更新日:2025年12月24日

リーダーシップに出会う瞬間

成人発達理論による自己成長のプロセス

有冬 典子 著

読了




読み進めるうちに、この本は

「リーダーシップに出会う瞬間」というタイトルではなく、

むしろ

「沈黙と空間に出会う瞬間」

と呼ぶべき本なのではないかと感じ始めた。


何かを獲得する物語ではなく、

自分がどのような物語の中で生き延びてきたのかを、

静かに、しかし確実に暴き出す本だった。


ぼくはこれまで、どれほど多くの現実から逃げてきただろうか。


幼稚園のころから、小学校、中学、高校、大学、社会人。

すべての時間において、

常に「逃げ続けてきた」という感覚がある。


そして、その逃避を正当化するために、

自分は学び、言葉をまとい、理論を集めてきた。


自分にも、他者にも、

「これは正しい選択なのだ」と言い聞かせるために。


そうして作り上げた物語は、

次第に他者を巻き込み、

後戻りできない「現実」として固定されていった。


極端に言えば、

学びとは、自分の物語を理論武装するためにあった

のかもしれない。


たとえば、

「自分は特別な存在だ」

「人生はなんとかなるものだ」

という信念。


運や縁を大切にし、

流れに抵抗せずに生きる。


そうした姿勢は、ときに

「ブレない生き方をする人」

として受け取られることもある。


しかし、この信念に近い感覚は、

本当は嘘っぱちだ。


そこには、人には知られたくない気持ちが隠れている。


実際には、こうだ。


「人生はなんとかなると信じることができれば、

目の前に立ち現れる恐れから逃げてもいいんじゃないか」


「だって、逃げてもなんとかなるのだから。

しかも、自分は特別なのだから」


「ぼくは、逃げることを肯定するために、

この言葉を信じている」


これが、一番正直な気持ちだ。


数日前、アニメ『最果てのパラディン』を視聴し終えた。

物語の終盤で、主人公が

本物の勇気とは何か

を問い続ける場面がある。


主人公は葛藤する。


他人にとっては困難で勇気が必要なことでも、

自分には苦もなくできること。

それは、どれほど結果を出し、称賛されようとも、

勇気とは呼べないのではないか。


では、

明らかに自分より格上の相手に無謀に挑むことを、

勇気と呼ぶのだろうか。


今のためなのか、

10年後のためなのか、

100年後のためなのか。

どの時間軸で決断することが、勇気なのだろうか。


「もし神が

『進みたまえ』

と命じてくれたなら、

どんなに楽なことだろうか……」


本物の勇気とは何か。

すぐに答えを見出せない問いだ。



ここで、さらに別の問いが浮かぶ。


人には、本当に自由意志があるのだろうか


「逃げること」

「立ち向かうこと」

「勇気ある選択」


私たちは、それらを

自分の意志で選んでいると思っている。


しかし実際には、

生まれ、環境、身体、関係性、時代。

それらすべての影響の中で

「そうせざるを得なかった選択」を、

後から「自分の意志」と呼んでいるだけなのではないか。


もしそうだとしたら、

自分という存在そのものが、

ひとつの錯覚なのかもしれない。


だが同時に、

「自由意志は存在しないのではないか」

と理解しようとし、学ぼうとするその姿勢さえも、

逃げるための理論武装なのではないか、

という疑いが消えない。



私は、自分の影と向き合ってきただろうか。


影を直接語る代わりに、

「人のため」「社会のため」という物語を前提にして、

自分の弱さやエゴを巧妙に隠してきたのではないか。


質が悪いのは、素直にエゴを表面化することを恐れ、

学び、実践し、貢献する姿を演じることで、

その奥にある人間としての弱さを、

より見えなくしてしまうことだ。


その結果、周囲からは

「変わった人」

「志のある人」

「実践している人」

と見られるようになる。


しかし、

それらすべてが、

自分の奥にある影を見なくて済むようにするための

完璧な装置だったとしたら。


この「弱さを守るための物語」は、

結婚や子育てを通じて、

少しずつ形を変え、

ときに崩壊しそうになり、

そのたびに新しい物語を必要とした。


それでもぼくは、

どうにかして自分が信じる物語を

維持し続けてきた。


だが、その物語にも、

ついに明確な欠陥が現れ始めている。


・自分自身の身体的衰え

・両親の老い


身体的な強さと、

親から注がれてきた無条件の愛。

それらが、

自分の物語を無言のうちに支え、

守ってきた。


その前提が、いま、崩れつつある。


この年齢になっても、

自分の心にあるのは「甘え」だ。


大人をどう定義するかにもよるが、

いまだに大人になれていないという感触がある。


親が生きている。

それだけで、

どれほど大きなものを受け取って生きてきたのか。


その大きさの半分ほどでも、

子どもに手渡すことができるのだろうか。


リーダーシップに出会う瞬間とは、

何かを成し遂げた瞬間ではなく、


自分が編んできた物語の限界を、

直視してしまった瞬間

なのかもしれない。



最後に、 文中にある

責任と限界を結びつけて自分を捉えていたい

という言葉。


意味は理解できないが、この言葉が強く心に蘇ってきた。



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