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執筆者の写真yamashina shigeru

三省

吾日に吾が身を三省す

人の為に謀りて忠ならざるか

朋友と交わりて信ならざるか

習わざるを伝えしかと


私は毎日何度も反省をする。

人の相談にのったときに、真心をこめて、自分の気持ちを偽らずに接することができたか。

友と交流するときに、相手のことを信頼していたか。

自分がまだ理解できていないことを人に伝えてはいないか。

と。


この3つの視点を常にもちながら、毎日反省するということは、生半可な気持ちではできないように思う。



最近、上記3つに当てはまるわけではないか、3つの大きな反省すべきことがあった。




①家族

前回の朝活大学素読会のときに、コーチの横山さんと名刺の打合せをしているときのエピソードを紹介した。


将来何をしていたいですか

そんな質問を横山さんから投げかけられた。


ぼくはこんなふうに答えた。

「大雑把に分けると3つのことをやっていきたい」


一つ目は、今自分がなすべき仕事に集中すること。

これは常に疎かにしてはいけないことだと思っている。


二つ目は、身体感覚を通じて得られる学びをやりつづけること。

AIの進化を含め、これから人間に必要な大切な学びは、自らの身体を通じて何を感じ、どんな感情が生まれたか。それを探究していくこと。

これも、どんなに忙しくとも、やっていきたい。


三つ目は、地球環境を少しでもよくする実践

これは今の時代を生きる誰にとっても、必要なことなんじゃないか。

自分が所属している会社や組織として、社会や地球の環境に配慮した仕事をしているからいいってことではなく、自分ごととして何ができているか。それを実践していく。


この3つが、将来やりたいことだというより、常に意識していきたいことだ。

そんな風に答えたことをみんなに伝えた。



すると、それを聞いていた朝活大学素読会に参加している片桐さんから

家族のことはないのですね

と言葉をいただいた。


その瞬間は、パッと反応できなかったのだが、これはぼくの人生のテーマだと思っている。

家族との関係、関わり方について。


実は、過去にも同じ言葉をかけられたことがある。

そのときは「ど真ん中名刺とはどんなものなのか」を説明していた時だ。

なんとなく、得意げになり説明していたと思う。


説明が終わり感想をシェアしているときに、

「ところで、ど真ん中名刺のワークのどこに「家族」は入りますか?」

と。

そのときも、何も答えることができず、すごく心に刺さった記憶がある。


家族との向き合い方がすごく苦手です。

この世に生を受けたひとつの関門かなとも思っている。

改めて反省させられた。



②11月中旬に弓道の昇段審査がある。

人生初めて審査を受けることになる。

審査日が近くなると、みんな気持ちは一緒で、練習に参加する人数が増える。

なので、できれば道場が空いている時間を見据えて練習にいくことにしている。

平日のお昼の時間帯などだ。

夜の時間はすごく道場が混むのだ。


平日のお昼の弓道場には、先生と呼ばれるような方が多く練習に来られている。

一言、先生から声をかけていただくだけで、すごく参考になる。

これも平日に練習するメリットだ。


ここで、先生にこんな言葉を投げかけられた

「弓道教室のみんなはどうしている?」

「夜に顔だしている?」

「弓道教室のみんなと体配練習しなさい」

と。


このとき、ハッとさせられた。

ぼくはつい普通のスポーツのような感覚で、まずは自分が一人前になれるように努力することだけを考えていた。

レギュラーを獲得したいという気持ちと同じだ。

むしろ同じ弓道教室のみんなことを、ライバルのようにも感じていたのかもしれない。


何かその気持ちを見透かされたような先生の言葉だったのだ。


先生は、弓道教室のときも

みんなでうまくなりましょう。一人だけがうまくなることは違います

できない人がいたら、待ってあげることが大事です

と、指導してくださっていた。


親子論語教室でも、同じように「」を学ぶ。

共に机を並べる友を慮る。

ただなんでも知っているだけの知識人になるのではなく、思いやりの心、自然の移ろい、友の体調など、目には見えないことにも心を動かすこと。


自分のことばかり考えていたことを反省した。



③少し前になるが14歳の挑戦を受け入れていた。

その初日にスタートアップセミナーとして、14歳の挑戦に向けて、これから向き合っていくことになる進路の選び方についてのお話をさせてもらった。


そのときのセミナーを動画で録画しており、その編集作業をおこなった。


すると、ぼくがすごく子どもたちに嫌われるような典型的な態度と言動をしていたことを客観的に知ることになった。


「みんなには、まだ分からないかもしれないけど」

「どうせ忘れると思うけど」


そんな言葉を多用していたのだ。

自分という人間がすごく小さい人間に覚え、赤面した。


なぜこんな言葉がでたのだろうか。

中学生に舐められたくない、大人ぶりたい、そんな感情があったのだろう。

恐れに近い感情かもしれない。


強い自分を演じようとしてしまったのだと思う。

反省するしかない。



人の相談にのったときに、真心をこめて自分の気持ちを偽らずに接することができたか。

友と交流するときに、友のことを信頼して接したか。

自分がまだ理解できていないことを人に伝えてはいないか。



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