もう一度、PERFECT DAYS。
この映画の特徴のひとつに、光と影がある。
主人公は、木漏れ日が壁などに影として映し出され、その揺れ動く様に常に心を躍らせる。
影となった瞬間、三次元は二次元となり、質量や奥行は消える。
しかし、影と影が重なるとき、それは深い黒となると、主人公は言い切る。
そういった場面がとても印象的に、何度も映画の中で登場する。
週末に大阪に戻り、左足をケガしているのだが、妻とゆっくり5km程度のランニングを続けている。
早朝6時ぐらいだと、かすかに太陽を感じ始めることはできるが、それでも暗闇だ。
同じ時間帯にランニングしている人、ごみ拾いをしている人、馴染みの方に出逢える。
河川敷の横の車通りの少ない道は、およそ100m間隔おきに街灯が灯る。
その下をゆっくりと妻と走る。
街灯に近づくと、影は、どんどん背が高くなり、色も透明に近づく。
そして消える。
街灯を通り越し、5mほど進むと、背の低い濃い影が、足元から現われる。
そして、徐々に影は伸びていく。
次の街灯が近づいてくると、影はどこまでが自分の影か分からないような長さになり、道路に溶けていく。
これを何度も何度も繰り返していく。
影は真実を映し出す。
自分はどんなフォームで走っているのか、的確に表現してくれる。
妻の影は、左肩が常に下がり気味で、前後に揺らしながら走っている。
ぼくの影は、頭がずっと上下に動き続け、跳ねているようにみえる。
自分が思う自分のフォームと、自分の影のフォーム。
どちらが正解なのだろうか。
きっと、影が正解なのだろうが、なぜか信用できない。
信じているのは、常に自分が思う自分のフォームだ。
道の途中に自販機があると、影は二重にも三重にもなり、リズムに合わせた動きの中に、不調和な動きが重なる。
後方からライトをつけた車が近づくと、一気に影は混乱をきたす。
影のリズミカルな変化と、影が見せてくれる真実の姿を写真や動画に収めたいという欲求も生まれるのだが、どう考えても、撮影できないということに気づく。
自分では撮影は無理だし、第三者に背後から撮影してもらおうとしても、その第三者の影も映ることになるはずで、どうにもこうにも、今自分の足元で繰り広げられている物語を捉えることができない。
月曜日はゴミの日だ。
イヤホンでラジオを聴きながら、準備をする。
ラジオから流れる言葉。
光は全体を包む。
しかし、影は、ひとりひとりの個性を魅せてくれる。
影は、光が生み出している。
最近大好きになった新美さんの絵本「だれのかげ」を思い出す。
光は全体だ。
影は、光に何かがぶつかり、それを投影している姿だ。
影には、色も奥行も存在しないが、光と物体の位置関係によって、いろんな表情を見せてくれる。
それは個性的であり、同じものはどこにも存在しない唯一無二な姿だ。
影の唯一無二性に感動した。
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