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たっしーへ。

閉ざされた現場に、もう一度光が当たるとき


友人がFC今治の視察に行くという話を聞き、岡田さんと田坂さんの対談を思い出した。

久しぶりに、田坂さんの講演動画を拝見した。


人は必ず死ぬ。

成功は約束されていないが、成長することはできる。


いつもながらの田坂節が、心に響く。


ただ昔と違い、人はもっと多様な存在だとも思うようになった。


成長することを否定するわけではない。

しかし、成長の優先順位が低い人もいる。


成長を望めない時期もある。

疲れや諦め、無力感の中で、成長や変化そのものに無関心になることもある。


ちょうど今朝の音読会のテーマともつながる。


現代文明は、人々が孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供する。(エーリッヒ・フロム)

痛み止めを打って無感覚になれば、他人にも、自分にも、無関心になっていく。


孤独とは、自分とつながれないこと。

自分を愛せないこと



そう思えてしまうのは、その人自身の問題だけではないのかもしれない。


これまで生きてきた環境かもしれないし、社会全体の影響かもしれない。

あるいは、偶然の重なりかもしれない。


厳しいと感じるのは、「自分を愛せない」ということ自体に無自覚であり、自分でもわからないまま社会に出て、生きていくことだ。


いいような、わるいような。

そんな心のテーマを抱えながらも、肉体的にも精神的にも生きる力はある場合…。

その自分の中にあるギャップに気づかないまま、働き、生きていくことになる。


嫌でも、しんどくても、それでも現場に立ち続けてしまう。


自分を愛せなくても成立する現場とは、どんな現場だろうか。

自分を愛せていないことに気づかなくてもいい現場とは、どんな現場だろうか。

むしろ、そういう現場は、社会にとって必要なのだろうか。



仕事の現場では、専門性が求められる。

スペシャリストとしての力。


それは一見、素晴らしい個性のように見えるが、

同時に「その場所でしか通用しない力」でもある。


スペシャリストとお金の価値が比例したり、アートと融合するような専門性であれば、

その力を追求することが社会とつながる力にもなるだろう。

しかし、そうでない場合、孤独のまま進むことになるのではないか。



一方で、いま問われているのは、スペシャリスト力よりも、プロフェッショナルとしての在り方だ。


現場が違っても、相手が違っても、その場に働きかけ、人をエンパワーメントしていく力。

コミュニケーション、ファシリテーション、勇気、エゴと向き合う力など。


この二つの力について、田坂氏は語っていた。

AIが社会に普及していく中で求められるのは、プロフェッショナル力だと。



しかし、このプロフェッショナル力は、成長を望んだときにしか立ち上がらないのではないか。

自分が変われると信じたときにしか、意味を持たないのかもしれない。


では、成長や変化を諦めている、あるいは優先順位が低い場合はどうなるのだろう。

そんな問いが残る。



ある引っ越しの現場の話を聞いた。


説明はない。

言葉も少ない。

人は不愛想で、

まるでコマのように扱われる。


途中で帰りたくなるほど、嫌な現場。

けれども最後には、もう一度行きたいと思ったという。


そこを居場所として働く人たちは、どんな人たちだろうか。




自分に無価値を感じ、関係が切れ、無感覚になっていく。


しかしその中で「働く」ことを選択し、自分で考え、動き、関わり始めると、ある瞬間、現場と噛み合う。

自分がその場の一部になる。


それは、「価値が証明された瞬間」というより、「社会と自分をつなぐ現場を発見した瞬間」だ。


しかし同時に、こうも言える。

その現場は、プロフェッショナルでなくても回ってしまう構造の場である。

人が入れ替わっても成立し、教えなくても動き、成長しなくても回る。


それは、ある意味で「閉ざされた現場」である。


対話がなく、学びが循環せず、関係が生まれない。

ただ機能だけが残る場。

「効率を追求した場」といえるかもしれないが、それはすごく狭義な意味としてだ。



不思議なことに、こうした現場は資本主義の中では合理的でもある。


人をコマとして扱うことで、効率よく回すことができる。


資本家や経営者にとっては、労働者が目覚めるよりも、そのまま働いてもらう方が都合がいい場合もある。


労働者は無意識に、自分がコマのように扱われていることを感じ取り、今度は自分が部下をコマのように扱うようになる。

それは、自分がされていることを他人に返しているだけの反射でもある。


しかし、それは本当にこのままでいいのだろうか。

そこには、取り残されている何かがあるのではないか。



今、時代が変わろうとしている。

AIが普及し、人の役割そのものが問い直されている。

言語化された知識や、手順化された作業は、AIによって代替されていく。


そのとき、残るものは何か。


言葉にならないものを感じ取る力。

関係性の中で動く力。

その場で意味を生み出す力。


一見、ダメに見える現場。

しかしそこには、人間にしかできない力が眠っている可能性がある。

ただし、それは放っておいても価値にはならない。


単に、その業界だけのスペシャリスト力にとどまってしまう。

しかも、自分を愛さなくても成立してしまう力として。


消耗するだけの場として終わるのか。

人間的な力を育む場になるのか。


閉ざされた現場と、開かれた現場。

この二つをどうつないでいくのか。


外の世界と接続すること。

対話を持ち込むこと。

そして、その両方を知る人が橋をかけること。


閉ざされた現場に、もう一度光を当てることができるのか。

自分を愛する力を取り戻すために。

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