たっしーへ。
- yamashina shigeru
- 7 時間前
- 読了時間: 5分
閉ざされた現場に、もう一度光が当たるとき
友人がFC今治の視察に行くという話を聞き、岡田さんと田坂さんの対談を思い出した。
久しぶりに、田坂さんの講演動画を拝見した。
人は必ず死ぬ。
成功は約束されていないが、成長することはできる。
いつもながらの田坂節が、心に響く。
ただ昔と違い、人はもっと多様な存在だとも思うようになった。
成長することを否定するわけではない。
しかし、成長の優先順位が低い人もいる。
成長を望めない時期もある。
疲れや諦め、無力感の中で、成長や変化そのものに無関心になることもある。
ちょうど今朝の音読会のテーマともつながる。
現代文明は、人々が孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供する。(エーリッヒ・フロム)
痛み止めを打って無感覚になれば、他人にも、自分にも、無関心になっていく。
孤独とは、自分とつながれないこと。
自分を愛せないこと。
そう思えてしまうのは、その人自身の問題だけではないのかもしれない。
これまで生きてきた環境かもしれないし、社会全体の影響かもしれない。
あるいは、偶然の重なりかもしれない。
厳しいと感じるのは、「自分を愛せない」ということ自体に無自覚であり、自分でもわからないまま社会に出て、生きていくことだ。
いいような、わるいような。
そんな心のテーマを抱えながらも、肉体的にも精神的にも生きる力はある場合…。
その自分の中にあるギャップに気づかないまま、働き、生きていくことになる。
嫌でも、しんどくても、それでも現場に立ち続けてしまう。
自分を愛せなくても成立する現場とは、どんな現場だろうか。
自分を愛せていないことに気づかなくてもいい現場とは、どんな現場だろうか。
むしろ、そういう現場は、社会にとって必要なのだろうか。
仕事の現場では、専門性が求められる。
スペシャリストとしての力。
それは一見、素晴らしい個性のように見えるが、
同時に「その場所でしか通用しない力」でもある。
スペシャリストとお金の価値が比例したり、アートと融合するような専門性であれば、
その力を追求することが社会とつながる力にもなるだろう。
しかし、そうでない場合、孤独のまま進むことになるのではないか。
一方で、いま問われているのは、スペシャリスト力よりも、プロフェッショナルとしての在り方だ。
現場が違っても、相手が違っても、その場に働きかけ、人をエンパワーメントしていく力。
コミュニケーション、ファシリテーション、勇気、エゴと向き合う力など。
この二つの力について、田坂氏は語っていた。
AIが社会に普及していく中で求められるのは、プロフェッショナル力だと。
しかし、このプロフェッショナル力は、成長を望んだときにしか立ち上がらないのではないか。
自分が変われると信じたときにしか、意味を持たないのかもしれない。
では、成長や変化を諦めている、あるいは優先順位が低い場合はどうなるのだろう。
そんな問いが残る。
ある引っ越しの現場の話を聞いた。
説明はない。
言葉も少ない。
人は不愛想で、
まるでコマのように扱われる。
途中で帰りたくなるほど、嫌な現場。
けれども最後には、もう一度行きたいと思ったという。
そこを居場所として働く人たちは、どんな人たちだろうか。
自分に無価値を感じ、関係が切れ、無感覚になっていく。
しかしその中で「働く」ことを選択し、自分で考え、動き、関わり始めると、ある瞬間、現場と噛み合う。
自分がその場の一部になる。
それは、「価値が証明された瞬間」というより、「社会と自分をつなぐ現場を発見した瞬間」だ。
しかし同時に、こうも言える。
その現場は、プロフェッショナルでなくても回ってしまう構造の場である。
人が入れ替わっても成立し、教えなくても動き、成長しなくても回る。
それは、ある意味で「閉ざされた現場」である。
対話がなく、学びが循環せず、関係が生まれない。
ただ機能だけが残る場。
「効率を追求した場」といえるかもしれないが、それはすごく狭義な意味としてだ。
不思議なことに、こうした現場は資本主義の中では合理的でもある。
人をコマとして扱うことで、効率よく回すことができる。
資本家や経営者にとっては、労働者が目覚めるよりも、そのまま働いてもらう方が都合がいい場合もある。
労働者は無意識に、自分がコマのように扱われていることを感じ取り、今度は自分が部下をコマのように扱うようになる。
それは、自分がされていることを他人に返しているだけの反射でもある。
しかし、それは本当にこのままでいいのだろうか。
そこには、取り残されている何かがあるのではないか。
今、時代が変わろうとしている。
AIが普及し、人の役割そのものが問い直されている。
言語化された知識や、手順化された作業は、AIによって代替されていく。
そのとき、残るものは何か。
言葉にならないものを感じ取る力。
関係性の中で動く力。
その場で意味を生み出す力。
一見、ダメに見える現場。
しかしそこには、人間にしかできない力が眠っている可能性がある。
ただし、それは放っておいても価値にはならない。
単に、その業界だけのスペシャリスト力にとどまってしまう。
しかも、自分を愛さなくても成立してしまう力として。
消耗するだけの場として終わるのか。
人間的な力を育む場になるのか。
閉ざされた現場と、開かれた現場。
この二つをどうつないでいくのか。
外の世界と接続すること。
対話を持ち込むこと。
そして、その両方を知る人が橋をかけること。
閉ざされた現場に、もう一度光を当てることができるのか。
自分を愛する力を取り戻すために。

コメント