諦める人生
修身を学ぶ会富山 第12講 「感想」を読んで 「自分の人生を真実に生きる」と本気で考える人は、一体どれくらいいるのだろうか。 これまでの人生を振り返ると、ぼくは何度も自分の人生をあきらめてきたように思う。 中学時代、落合信彦氏の本に出会い、夢中になって読み漁った。 本の中には、自分の足で世界を歩き、自らの人生を切り拓いていく生き方が描かれていた。ぼくはその生き方に強く共感した。 しかし、自分の進路を海外へ向けることはなかった。 なぜなら、「自分にはできるはずがない。それは夢物語の世界だ」と、最初からあきらめていたからだ。 中学時代は部活動にも打ち込み、高校に進学したら全国大会を目指そうと仲間たちと誓い合った。 しかし、高校進学の際には、部活動の強豪校ではなく進学校を選んだ。 大人の顔色を見て決めた進路だった。 当時は、自分の意思というよりも、大人や社会の空気に責任を押し付けていた。 でも、本当は違う。 確かに大人からのプレッシャーはあった。 しかし、最終的に選んだのは自分だった。 なぜか。 厳しい練習から逃げたかったのだ。 自ら逃げたという事実を
人生の深さ
修身を学ぶ会富山 第14講 人生の深さ 人生を深く生きる人は、身近に誰がいるだろうか。 そう考えたとき、真っ先に妻と子どもたちの顔が浮かんだ。 妻も4人の子どもたちも、誰かと比較することはできない。 一人ひとりが見ている世界も、感じていることも、向き合っている方向も違う。 それでも、それぞれが人生を深く生きていると感じる。 「世の中に繊細であること」 これは一見すると、生きづらさの象徴であり、世の中から求められる生き方に合わせることは、とても大変なことだ。 しかし、その繊細さこそが、人生を深く生きる力になるのではないかと思う。 人生を、長さではなく深く生きたいと願うことはあるかもしれない。 しかし一方で、それを前向きな選択としてではなく、「人生を深く生きる道しかない」と感じながら生きている人もいるのではないだろうか。 もし、その生き方をネガティブなものだという思い込みがあるとしたら、僕にできることは何だろう。 人生を深く生きる道しか見えない人の生き方に触れ、その人とつながることで、僕自身も変わり続ける。 もし、その出会いが僕に変化をもたらしてくれ
服装
修身を学ぶ会富山 第10講 肉体の護持 最近、妻から服装について注意されることが増えた。 なにも、立派な服やおしゃれな服を着てほしいということではない。 50歳を超え、それなりの経験と学びを重ねてきた中で、内なる人間的成長と服装の「周波数」を合わせてほしい、ということだと理解している。 服装以外にも、「魂を傷つけてはいけない」と注意される。 何かを我慢すること、本当に望んでいるものを諦めること。 そういった言動や選択をしたときに、指摘されるのだ。 それと同じ流れで、服装についても注意される。 何度となく言われてきたが、これまでの自分は、あまり関心を向けてこなかった。 ただ、今回この講を読み、改めて妻が伝えようとしていることの大切さに気づいた。 そして、僕自身が次のフェーズに移行する時期なのかもしれない、とも思えた。 とはいえ、「次のフェーズ」といっても、偉くなるということではない。年齢的な節目、という意味合いでもある。 今回の講で語られていたのは、「生涯をかけて向き合う大願を立てること」であった。 その願いを立ててはじめて、人は一人前の人間として
無限の時間を生きる
修身を学ぶ会富山 第13講 伝記を読む時期 偉人とは、自己の生命を最も深大に生きた人と言えるでしょう。 今回は、この言葉が心に留まった。 どこまで深く生きるか――そこには制限がない。 では、ここでいう「深さ」とは、どのように捉えるべきだろうか。 肉体的な生命の長さには限りがあるが、生命を深く生きることには制限がない。 この「制限」という言葉の含みには、「時間」をどう捉えるかという問いがあるのだろう。 有限の時間の流れの中で、無限の時間の流れを感じながら生きるには。 その在り方こそが、「深さ」につながるように思う。 では、無限の時間の流れを感じる時とは、どんな時だろうか。 ここでいう無限の時間とは、「退屈な時間が続くこと」ではなく、「時を忘れて没頭する時間」のことだろう。 時間の流れが消える瞬間。 人生において、どんな条件が揃うと、人は没頭できるのだろうか。 今、この瞬間にある気づきが、この世界の中で唯一自分だけのものだと自覚できた時。 さらに、その気づきが、これまでの長い人類の歴史の中でも唯一無二のものだと、疑いなく信じられる時。...
自己反省
修身を学ぶ会富山 第11講 長所と短所 今回のテーマは、 内面の長所と短所 、そして 外面の長所と短所 に、私たちはどのように向き合うことが大切なのか、というものだった。 長所をどう伸ばすのか。 短所をどう受け止めるのか。 一見、よくある問いのようでいて、しかし掘り下げていくと、とても根の深いテーマである。 まず、内面――精神面の成長について考えたとき、単純に「長所を伸ばす」「短所を克服する」という話では済まない。 内面を伸ばすためには、 「自己反省」 という通路を通る必要がある。 けれども、この「自己反省」という言葉は、実はとても難しいことだ。 そもそも私たちは、自己反省をする“用意”ができているのだろうか。 そして、反省すべき何かに“気づく”ことができているのだろうか。 そこが、最初の大きな問いになる。 今回のテーマに即していないかもしれないが、よくこう言われる。 「大きな困難を乗り越えた人は、内面が大きく成長する」と。 確かに、苦しみや葛藤を通った人の言葉には、どこか深みがある。 では逆に、大きな困難のない人生は、人を成長させないのだろうか
発願
修身を学ぶ会富山 第9講 発願 「道の上では師に譲らず」 第9講の最初のところに、この言葉が紹介されていた。 この言葉にすごく似た有名な論語の章句がある。 仁に当たりては 師にも譲らず 自分の心にある「仁」。 思いやる心、相手を大切にしたい気持ち、大事にしたい気持ち。 自分が一生ついていこうとする尊敬する師がいるとして。 その師からのお願いだったとしても、自分の中にある「仁」に反することであれば、師であろうが自分の気持ちを譲ってはならない。 そういった意味の章句だ。 今回のテーマ「発願」と呼べるものが、自分の言葉として表現できるかといえば、できない。 ただ、「仁に当たりては師にも譲らず」という章句と、自分の発願はすごく近いところにあることは感じる。 この章句と向き合うと、いろんな気づきに出会うことができる。 まず大切なのは、譲らないことは、「正義」ではないということ。 仁、つまり思いやる心だ。 正しさを貫くことではなく、生まれながらにある「仁」を譲らない。 「思いやり(仁)」ということは、すでに、自分ひとりのことを考えていることではないということ
希望の種を拾う
修身を学ぶ会富山 第7講 身代わり 小学校の低学年だったころ、同級生が雪の事故で亡くなるという出来事が起きた。 当時担任だった、いつもやさしい女性の先生は、事故後、まるで別人のように表情が硬くなり、少し冷たい空気を常にまとっているようになった。 その変貌ぶりがあまりにも印象的で強く記憶に残っている。 きっと、その時の担任の先生は、感じるの必要のない「責任」と、死を覚悟したのかもしれない。 数か月間に、この話を人生で初めて姉に話す機会があった。 すると、想像もしなかった話を聞くことになった。 姉曰く、 「しげる(僕)の話してくれた内容と全く同じ話を聞いたことがあるよ。」 「その先生って、もしかして〇〇先生でしょ」 「実は、以前婦人会か何かの集まりで〇〇先生にあったときに、呼び止められたの。」 「そのときに、その事故の話になり、当時の山科君には申し訳ないことをした、と。」 これは僕が当時、特別な生徒だったわけではない。 つまり、先生は、当時のクラス生徒、全員の名前と顔、そして、自分が変化してしまったことを忘れずに生き続けているということなのか。...
自分の平生使い慣れた一を改める
修身を学ぶ会富山 第5講 学問の本義 弓道をはじめて、ようやく3年になる。 少しずつ、道の深遠を知ることができるようになってきた。 自分の平生使い慣れた一を改める 人生50年生きてきて、無自覚に身に着けた「一」をどう直していくか。 妻にこれまで何度も注意されいてる身体的癖がある。 少しあごを上げた状態で歩く姿勢だ。 相手にあまりいい印象を与えないと、よく注意を受ける。 注意されるたび、そうだなと思う反面、自分の個性のひとつでもあり、そんな自分の姿勢を少し気に入っていることもあり、真剣に直そうと思ったことがない。 そもそも、これまで妻に注意されるまで、そんな癖があることすら知らなかった。 ふと、一体いつからあごを上げるようになったんだろう。 そんな問いが生まれた。 その問いを考えていくと、ぐっと心の奥からこみあげてくる感情があった。 放っておくと、涙がでそうになる。 小学校時代、すごく身体が弱く、人と関わることも苦手、そして甘えん坊だった。 そんな自分が、担任の先生に勧められてスポーツを始めることになる。 まじめに取り組むことで、試合にも出られ、レ
無限と有限の間
修身を学ぶ会富山 第9講 情熱 歳を重ね、経験を重ねていくと、情熱と感動が薄らいでいく。 歳を重ね、経験を重ねていくと、情熱と感動が増していく。 この二つの道があるようにおもう。 もしそうであるなら、この二つの道の分岐点は何だろうか。 もうひとつ、歳を重ね、経験を重ねていくと、情熱は減り、感動は増えていくパターンもあるように思う。 感動は、深くいまに在る力と、今にある喜びが組み合わさる時に訪れるのかもしれない。 情熱は、イマココに無限の可能性を秘めていることを知るつつも、「人生二度なし」と有限かつ一度きりの人生だということを自覚することから生まれるものかもしれない。 無限と有限の間に、情熱の炎が燃える。 しかし、情熱の炎を浄化しようとすると、強い意志の力が必要だ。 この意志の力、志を抱く力に導いてくれるのは、「いのちの声」に耳を傾けることなのだろう。 この「いのちの声」に耳を傾けることへの恐れは、抜けることはない。 でもこの感情は、正しいことなのかもしれない。
深い対話
修身を学ぶ会富山 第4講 死 自分が死んだ後に、何を残すか、どんな働きができるのか。それが問われている。 死後、はじめて本物の社会貢献ができる。 こういったニュアンスのメッセージをこれまでの修身で受け取っていた。 つまり、生きているうちは、どうしても肉体を維持しなければなら...
気品とペインボディ
修身を学ぶ会富山 第8講 気品 約1年ほど毎朝5時からの音読会に参加させてもらっている。 メインは、エックハルト・トール著の「ニューアース」だ。 さて、「気品」とは、一代で身につくものではなく、子孫に伝えていくものだとある。...
不滅の火は、誰のものか
修身を学ぶ会富山 第3講 古人に学ぶ 森先生の言葉に触れると、自然に心が熱くなる。 われわれがこの二度とない人生を、真に徹底して生き抜こうとすると、何よりもまず古人に学ぶ処がなければならない。 偉人とは、永い生涯を、真に生命がけで徹底的に生き抜いた人々だ。...
言葉の奥にある重みにたどり着く。
修身を学ぶ会富山 第7講 大志を抱け 「立派な先生になる」など、ていのよい逃げ言葉だ。 今回は、この言葉に心が動いた。 便利な道具が目の前にあると、どうしてもそれに頼ってしまうものだ。 そのひとつに、AIがある。 言葉にできそうで、できないこと。...
意図せず世代を超える
修身を学ぶ会富山 修身教授禄続 第2講 立志 「死後に生きる」というテーマに対して、すごく共感していた時期があるのだが、一度躊躇した時がある。 「人生二度なしという覚悟で生きているが、死後に何かを残す生き方は選びたくない」 そんな声を聴いた時だ。...
醜さ
修身を学ぶ会富山 第6講 意地と凝り性 ひとかどの人間になる人は、小さい頃から、いろいろその特徴がある。 それが、「意地」と「凝り性」だということ。 ただ、どちらも、そのままだと、他者との比較の世界だったり、 醜い人間の欲望 である。 それを純化させていくことが大事だ。...
開講のことば
修身を学ぶ会富山 第1講 開講のことば まず感じたのは、森先生の生徒に対する厚い信頼だ。 どんな経緯で進路を選んだにせよ、この道を選んだということは、そこに少なからずの志があったのではないか。 大きな志がある人、何んとなくという思いの志。 いやむしろ、志など私にはない。...
生命の愛惜の希薄さ
修身を学ぶ会富山 第4講 生命の愛惜 生命の愛惜を真に感じたことは、これまであるだろうか。 尊敬する方や想像もできない体験をした方から、思考を通じて、または、感情的に命の大切さを問われても、「ほんとうにそうだ」と、本心から生命の愛惜を我が事として感じる自信がない。...
時間を超える
修身を学ぶ会富山 第3講 人生二度なし 「人生二度なし」という真理を痛感して、いささかでもよいから、その精神が死後にも生きるような人間になって戴きたいと思うのです。でなければ、せっかくこの世へ人間として生まれてきた意義はないと言えましょう。 自分は、この言葉にある「...


