醜さ
- yamashina shigeru
- 2 日前
- 読了時間: 3分
修身を学ぶ会富山
第6講 意地と凝り性
ひとかどの人間になる人は、小さい頃から、いろいろその特徴がある。
それが、「意地」と「凝り性」だということ。
ただ、どちらも、そのままだと、他者との比較の世界だったり、醜い人間の欲望である。
それを純化させていくことが大事だ。
純化させていくには、反省を怠らないこと、偉人が残した力強い人生の歩みと「教の力」が必要だ。
今回の章は、こんな内容だった。
さて、今回、タイトルになってる「意地」と「凝り性」というテーマから離れて、自分が生まれながらにもっている気質の中で、一体何が、「醜い人間の欲望」になりえるもので、それを純化させていくことで変容可能なのものは何か。
思いをめぐらした。
なかなか言語化することができず、結局うまく感想を書くことができなかった。
それでも、曖昧ながら言葉にできたのは
・状況に潔く甘んじ、受け入れること。
・嵐が過ぎ去るのは待ち続けること。
なのかもしれない。
一見、どちらもいいように思われるかもしれないが、ぼくの心の中ではすごく醜い心が渦巻いている性質なのだ。
正々堂々と自分の意志を伝え合うということに恐れを感じて、逃げているのだ。
自分の本心が伝わるのが怖い、恥ずかしい。
恥ずかしいという感情のほうが強いかもしれない。
「受け入れる」「待つ」という選択を選び、課題を再解釈してみたり、時間をかけることで、問題が問題にならなくなるまで薄める。
それは自分の責任の重さを薄める行為でもある。
そういった、大人の仮面をかぶり、駄々っ子のように、ひたすら逃げることを望んでいる醜さがある。
共に学んでいる浦井さんから
「きっと、争いを避ける選択をしているのだろう」
と指摘された。
確かにそうだ。
争いを避けるのだ。
常に争いを避けることを意識しながらも、その場から身を引くことを嫌う。
ここにぼくの醜さがある。
そして、あわよくば、相手のほうが根負けすることを無意識に願っている。
まさに、「意地」と「凝り性」である。
いやあ、ここまで考えると、本当に醜い。
笑える。
純化。
この自分の気質をこれまでの人生で、「純化」させていくこともしていたように思う。
たとえばスポーツの世界だと、チームメイトと争うということを嫌い、唯一無二な存在になる努力を行う。
ひとつだけでもいいから、誰にも負けない技術を磨き続ける。
争う必要のないポジションを見つける、一直線にそれを狙う。
結果的には、それが自分とってもチームにとってもいい方向に動いた経験がある。
実は、ど真ん中名刺の根源にあるのも、この醜い欲望を純化させたいという心の現れなのかもしれない。
つまり、「受け入れる」「待つ」という行為は、自分の心を偽るということになりかねない。
しかし、それは、したくない。
逃げたくないのだ。
状況を受け入れ、自ずと自分以外の誰かから答えが出ることを待つという姿勢は、一見、本心を偽るような姿になりかねない。
しかし、「思い」「言葉」「行動」を一致した第三の答えを発見し、そこに本当の自分を見出そうとする実践が、ど真ん中名刺のプログラムだ。
自分の選択の正当性を証明するために、物語を編集し、重なり合う答えを発見しつづける。
まさに反省を繰り返しながら、純化しようとしているのかもしれない。
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