top of page

開講のことば

修身を学ぶ会富山

第1講 開講のことば


まず感じたのは、森先生の生徒に対する厚い信頼だ。

どんな経緯で進路を選んだにせよ、この道を選んだということは、そこに少なからずの志があったのではないか。

大きな志がある人、何んとなくという思いの志。

いやむしろ、志など私にはない。

「どうせ・・・」「仕方なく・・・」

とエゴと自分を同一化させ、自分の心の奥に本当はある光のような志に、本人ですら気づいていない可能性だってある。


それでも、森先生は、きっとあるだろう光を、志を、全面的に信頼した上で、向き合っている。

目の前の生徒の中にある微かな光を見逃さまいと、語り掛けていく。

この「あり方」があるからこそ、生徒の心の中にあるエゴを溶かす力になるのではないか。


また、この信頼があるからこそ、生徒の予想を遥かに超える大志を、悠然と語ることができる。

この関係こそ、本物の教育の姿のように感じた。


教育とは、未来への、生命の種蒔きであるということ。

教育者は、100年先の未来を強く見据えながら、それでいて未来に心が奪われないように注意し、目の前の生徒に真剣に向き合うという、イマココを試される存在なのだろう。

そして、その力の矛先が、我が喜びであるかと問われる仕事でもある。


しかし、実は教育の世界の話ではなく、すべての仕事に当てはまることなのだろう。



次回

4月24日(木)19時30分から

zoomで開催

ど真ん中のなかまと一緒に学びましょう。


最新記事

すべて表示
希望の種を拾う

修身を学ぶ会富山 第7講 身代わり 小学校の低学年だったころ、同級生が雪の事故で亡くなるという出来事が起きた。 当時担任だった、いつもやさしい女性の先生は、事故後、まるで別人のように表情が硬くなり、少し冷たい空気を常にまとっているようになった。 その変貌ぶりがあまりにも印象的で強く記憶に残っている。 きっと、その時の担任の先生は、感じるの必要のない「責任」と、死を覚悟したのかもしれない。 数か月間

 
 
 
自分の平生使い慣れた一を改める

修身を学ぶ会富山 第5講 学問の本義 弓道をはじめて、ようやく3年になる。 少しずつ、道の深遠を知ることができるようになってきた。 自分の平生使い慣れた一を改める 人生50年生きてきて、無自覚に身に着けた「一」をどう直していくか。 妻にこれまで何度も注意されいてる身体的癖がある。 少しあごを上げた状態で歩く姿勢だ。 相手にあまりいい印象を与えないと、よく注意を受ける。 注意されるたび、そうだなと思

 
 
 

コメント


bottom of page