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自分の平生使い慣れた一を改める

修身を学ぶ会富山

第5講 学問の本義


弓道をはじめて、ようやく3年になる。

少しずつ、道の深遠を知ることができるようになってきた。


自分の平生使い慣れた一を改める


人生50年生きてきて、無自覚に身に着けた「一」をどう直していくか。

妻にこれまで何度も注意されいてる身体的癖がある。

少しあごを上げた状態で歩く姿勢だ。


相手にあまりいい印象を与えないと、よく注意を受ける。

注意されるたび、そうだなと思う反面、自分の個性のひとつでもあり、そんな自分の姿勢を少し気に入っていることもあり、真剣に直そうと思ったことがない。

そもそも、これまで妻に注意されるまで、そんな癖があることすら知らなかった。


ふと、一体いつからあごを上げるようになったんだろう。

そんな問いが生まれた。


その問いを考えていくと、ぐっと心の奥からこみあげてくる感情があった。

放っておくと、涙がでそうになる。



小学校時代、すごく身体が弱く、人と関わることも苦手、そして甘えん坊だった。

そんな自分が、担任の先生に勧められてスポーツを始めることになる。


まじめに取り組むことで、試合にも出られ、レギュラーになることができた。

学年が進むと、後輩もできる。


しかし、自分自身は、すごく弱い人間だということを自覚している。

それがバレないように、自分の弱さを隠すように、あごが上がっていったように思う。

それは、弱さを隠すのと同時に、相手と距離を置き、本当の自分を隠すためでもあったはずだ。

偽物の威勢を張る行為。


自分の身体的癖にある物語に光を当てたのは今回が初めて。



弓道では、所作のほとんどで、4m先の床を見る姿勢を教えられる。

正しく4m先を見ようとすると、あごを下げなければならない。


これは、ただ、審査の時にできてるだけではダメだろう。

ちょっとした動作に、いつのまにか癖が現れる。

左を向き、的を見る瞬間、正座から立ち上がる瞬間、所作ひとつひとつに、不意に癖が現れる。


そう考えると、癖そのものを直していかなくてはならない。


一を改めるのは、心、考え方をも、変えていく必要がある。





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