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深い対話

修身を学ぶ会富山

第4講 死


自分が死んだ後に、何を残すか、どんな働きができるのか。それが問われている。

死後、はじめて本物の社会貢献ができる。


こういったニュアンスのメッセージをこれまでの修身で受け取っていた。

つまり、生きているうちは、どうしても肉体を維持しなければならない。

そのためには、他の命をいただくことになる。

その維持する必要のない状態になったとき、つまり、肉体が朽ち果てた後にどんな働きができるのか。

「あの人なら、こんなふうに考えるのではないか」

「あの人の言葉で人生を変えることができた」

「あの人が残してくれた思想が、この社会を大きく変容させた」

これが、本当の社会貢献だと。


最初は、そういった「死後に残すもの」「死後につなぐもの」に対して、希望やあこがれ、ちょっとした名声を残したいというエゴが混じり合い、惹かれていた。


しかし、同じ修身を学ぶ仲間から、

「死後に何を残すかという考えに全く興味が沸かない」

「意味が分からない」

という意見をいただいた。


それはぼくの中では大きな驚きだった。



たとえば、「成長」という言葉。

人は誰もが成長できる。

こんな言葉を聴くと、そうだなと思う。

この言葉に疑問を抱くことはほとんどなかった。

しかし、本当に成長することは大事なんだろうか。

そう考えると、「成長とは何か」を再定義することから考えなければならない。


同じように、「後世に残し繋ぐこと」に、何の疑問もなくすばらしいことだと思っていた。

これは、「家を守る」という考えにもつながる。



死後への欲がない、かつ、いつ死んでも満足だと思える生き方を目指すという考えを聴き、迷った。

ぼくはどちらの道を目指そうかと…。

これは結構大きな迷いを生み出していた。


なぜならば、「ど真ん中名刺」もこの思いからはじまったからだ。

会社がもしなくなったとしても、覚えてもらいつづける存在になるための方法として。

これは間違いだったのだろうかと…。



今回の気づきは、「真実に生きる」こと。

一貫した生き方」ということ。


実は、死後にどういった感情を抱くかということは、それほど重要ではないのだ。


生・死不二

死・生一貫


たとえば。

生前よりも死後のほうが評価が上がる生き方

生前よりも死後のほうが評価が下がる生き方


どちらがどうかということではなく、生きていようが死のうが、その人物の評価が変わらない生き方を、家族に対して、友に対して、他者に対して、「今」できているか。

それが「真実に生きる」ということ。



では、真実に生きるには、どうすればいいのか。

評価が変わらない生き方をするには、どうすればいいのか。


他者と根っこでつながる生き方ができているか。

表面的な対話ではなく、深く対話をして繋がっていこうとしているか。


ここにたどり着いた。





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