深い対話
- yamashina shigeru
- 4 日前
- 読了時間: 3分
修身を学ぶ会富山
第4講 死
自分が死んだ後に、何を残すか、どんな働きができるのか。それが問われている。
死後、はじめて本物の社会貢献ができる。
こういったニュアンスのメッセージをこれまでの修身で受け取っていた。
つまり、生きているうちは、どうしても肉体を維持しなければならない。
そのためには、他の命をいただくことになる。
その維持する必要のない状態になったとき、つまり、肉体が朽ち果てた後にどんな働きができるのか。
「あの人なら、こんなふうに考えるのではないか」
「あの人の言葉で人生を変えることができた」
「あの人が残してくれた思想が、この社会を大きく変容させた」
これが、本当の社会貢献だと。
最初は、そういった「死後に残すもの」「死後につなぐもの」に対して、希望やあこがれ、ちょっとした名声を残したいというエゴが混じり合い、惹かれていた。
しかし、同じ修身を学ぶ仲間から、
「死後に何を残すかという考えに全く興味が沸かない」
「意味が分からない」
という意見をいただいた。
それはぼくの中では大きな驚きだった。
たとえば、「成長」という言葉。
人は誰もが成長できる。
こんな言葉を聴くと、そうだなと思う。
この言葉に疑問を抱くことはほとんどなかった。
しかし、本当に成長することは大事なんだろうか。
そう考えると、「成長とは何か」を再定義することから考えなければならない。
同じように、「後世に残し繋ぐこと」に、何の疑問もなくすばらしいことだと思っていた。
これは、「家を守る」という考えにもつながる。
死後への欲がない、かつ、いつ死んでも満足だと思える生き方を目指すという考えを聴き、迷った。
ぼくはどちらの道を目指そうかと…。
これは結構大きな迷いを生み出していた。
なぜならば、「ど真ん中名刺」もこの思いからはじまったからだ。
会社がもしなくなったとしても、覚えてもらいつづける存在になるための方法として。
これは間違いだったのだろうかと…。
今回の気づきは、「真実に生きる」こと。
「一貫した生き方」ということ。
実は、死後にどういった感情を抱くかということは、それほど重要ではないのだ。
生・死不二
死・生一貫
たとえば。
生前よりも死後のほうが評価が上がる生き方
生前よりも死後のほうが評価が下がる生き方
どちらがどうかということではなく、生きていようが死のうが、その人物の評価が変わらない生き方を、家族に対して、友に対して、他者に対して、「今」できているか。
それが「真実に生きる」ということ。
では、真実に生きるには、どうすればいいのか。
評価が変わらない生き方をするには、どうすればいいのか。
他者と根っこでつながる生き方ができているか。
表面的な対話ではなく、深く対話をして繋がっていこうとしているか。
ここにたどり着いた。
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