top of page

人の望み

修身を学ぶ会富山

第38講 置き土産


自分とは一体何者なのか。

それを問いつづけることが人生なのかもしれない。


自分は誰なのか。

肉体が自分なのか。

思考が自分なのか。

感情が自分なのか。


考えて、言葉にして、話しているのは、「ほんとうの自分」なのか。


自分と他人の境界線はどこにあるのだろうか。

「自分」とは、人との関係の中にしか存在できないのではないか。



自分は自分であって、自分ではない。



自分と他人、自分と世界が、溶け合う。

そう考えると、自分の一部は誰かの中に、世界の中に、影響し、残っていく。


人はどんな生き方をするにせよ、亡くなった後に置き土産を残すことになる。

その置き土産は、短いスパンで考えれば、いい置き土産かもしれないし、わるい置き土産かもしれない。

しかしそれは、時間とともに、消えてなくなるのではなく小川が大河へ、大河が海に合流するように、善悪は超越し、溶け合うのだろう。


自分がこの世に残す置き土産は、一粒の雨水でしかないのかもしれない。

でも、その一粒が、豊かな海に、忘れらない海から登る朝日の風景になるんだと、望むことは誰にも止められない。



最新記事

すべて表示
希望の種を拾う

修身を学ぶ会富山 第7講 身代わり 小学校の低学年だったころ、同級生が雪の事故で亡くなるという出来事が起きた。 当時担任だった、いつもやさしい女性の先生は、事故後、まるで別人のように表情が硬くなり、少し冷たい空気を常にまとっているようになった。 その変貌ぶりがあまりにも印象的で強く記憶に残っている。 きっと、その時の担任の先生は、感じるの必要のない「責任」と、死を覚悟したのかもしれない。 数か月間

 
 
 
自分の平生使い慣れた一を改める

修身を学ぶ会富山 第5講 学問の本義 弓道をはじめて、ようやく3年になる。 少しずつ、道の深遠を知ることができるようになってきた。 自分の平生使い慣れた一を改める 人生50年生きてきて、無自覚に身に着けた「一」をどう直していくか。 妻にこれまで何度も注意されいてる身体的癖がある。 少しあごを上げた状態で歩く姿勢だ。 相手にあまりいい印象を与えないと、よく注意を受ける。 注意されるたび、そうだなと思

 
 
 

コメント


bottom of page