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人の望み

修身を学ぶ会富山

第38講 置き土産


自分とは一体何者なのか。

それを問いつづけることが人生なのかもしれない。


自分は誰なのか。

肉体が自分なのか。

思考が自分なのか。

感情が自分なのか。


考えて、言葉にして、話しているのは、「ほんとうの自分」なのか。


自分と他人の境界線はどこにあるのだろうか。

「自分」とは、人との関係の中にしか存在できないのではないか。



自分は自分であって、自分ではない。



自分と他人、自分と世界が、溶け合う。

そう考えると、自分の一部は誰かの中に、世界の中に、影響し、残っていく。


人はどんな生き方をするにせよ、亡くなった後に置き土産を残すことになる。

その置き土産は、短いスパンで考えれば、いい置き土産かもしれないし、わるい置き土産かもしれない。

しかしそれは、時間とともに、消えてなくなるのではなく小川が大河へ、大河が海に合流するように、善悪は超越し、溶け合うのだろう。


自分がこの世に残す置き土産は、一粒の雨水でしかないのかもしれない。

でも、その一粒が、豊かな海に、忘れらない海から登る朝日の風景になるんだと、望むことは誰にも止められない。



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