修身を学ぶ会富山
第36講 一日の意味
今回の講に有名な論語の章句が紹介されている。
どんな風に紹介されているかというと。
道理を知るということは、非常に大事なことであります。またその方法の一つとして読書も、なかなか重大な意味を持つわけですが、しかしそれは実行を予想して初めて意味のあることです。
すなわち実行という土台の上に立って、初めて読書もその効果を生ずるわけです。
ですからやはり実行が本であって、学問というものは、ただ実行という土の上に立って、初めてその意義を持つわけで、これ孔子が「行って余力あれば以て文を学ぶ」と言われたゆえんでしょう。
この講では、一日とは一生の縮図であり、日々死を意識した一日を過ごすこと。
そのために、一日一日をやり残したことがないという生き方をしましょうと書かれてある。
そういったメッセージの中で実行の大切さが書かれてあり、孔子の言葉が紹介されている。
現代のぼくらがこの内容を読むと、無駄な時間をなくし、より効率的に生きる、自らの夢のために行動することが大切なんだと読んでしまうのではないか。
しかし、論語の言葉を全文知っていると、全く違う意味になる。
子曰わく
弟子(ていし)、入りてはすなわち孝、出でては則ち弟、
謹(いつくし)みて信あり、ひろく衆を愛して仁に親しみ、
行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ
孔子がおっしゃいました。
若者というのは、家では親孝行をして、外では年長者を敬う。
さらに、慎み深く誠実で、区別なく人々を愛する。
その対話と繋がりの中で思いやりの心に触れ、自らの思いやりの心を育んでいく。
そういった行いを心掛け、それでも余力があるなら、学問を学ぼう。
「行」とはそういうことなのだ。
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