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生命の愛惜の希薄さ

  • 執筆者の写真: yamashina shigeru
    yamashina shigeru
  • 2024年12月19日
  • 読了時間: 2分

修身を学ぶ会富山

第4講

生命の愛惜


生命の愛惜を真に感じたことは、これまであるだろうか。

尊敬する方や想像もできない体験をした方から、思考を通じて、または、感情的に命の大切さを問われても、「ほんとうにそうだ」と、本心から生命の愛惜を我が事として感じる自信がない。


恐怖や痛み、病いといった特別な環境に置かれ、命の危機にさらされたら、もちろん、命を何がなんでも生きたいと願うとは思う。



たとえば、「あなたの残りの命は3か月です」と宣告されたとしよう。

その時、自分はどう思うだろうか。


後悔するだろうか。

絶望するだろうか。

それとも軽い微笑みを浮かべるだろうか。



生命の愛惜は、ぼくの人生のテーマにも通じる。


ぼくは、生命の愛惜の希薄さを、一見、悟りに近い道のように信じていた節がある。

しかも子どものころからずっと。


「命を大切にしない」ということではなく、何か起きた出来事をポンと受け入れる。

あまり抵抗なく。

ん~。

お金に近いのかな。

よく、ファイナンスの語源ってフィニッシュ、関係を終わらせること、っていうけど。

関係を切ろうとするのだろうか。


ただ、最近、心境の変化があって。


生命の愛惜の希薄さに、美的感覚を感じていたことに対し、それもカタチを変えた単なるエゴなんではないかと。


なぜそう思うようになったかは、語れない。

いろいろ重なって、ふわって思った。


自宅の1Fから2Fにのぼる階段は、ちょうど真ん中で90度に曲がるのだけど、その真ん中にちょこっとした踊り場がある。

その狭い空間に座って読書をするのが心地いいのだけど、たしか、そこでなんか携帯ゲームをしたときだったかな。


この漠然とした気づきから、諦めていた眼の緑内障と白内障の症状に対して、ちゃんと医者に診てもらおうって思ったのです。

これはぼくの中では、むちゃくちゃ大きい一歩です。

 

他者に説明するには結構困難な感覚。

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