修身を学ぶ会富山
第4講
生命の愛惜
生命の愛惜を真に感じたことは、これまであるだろうか。
尊敬する方や想像もできない体験をした方から、思考を通じて、または、感情的に命の大切さを問われても、「ほんとうにそうだ」と、本心から生命の愛惜を我が事として感じる自信がない。
恐怖や痛み、病いといった特別な環境に置かれ、命の危機にさらされたら、もちろん、命を何がなんでも生きたいと願うとは思う。
たとえば、「あなたの残りの命は3か月です」と宣告されたとしよう。
その時、自分はどう思うだろうか。
後悔するだろうか。
絶望するだろうか。
それとも軽い微笑みを浮かべるだろうか。
生命の愛惜は、ぼくの人生のテーマにも通じる。
ぼくは、生命の愛惜の希薄さを、一見、悟りに近い道のように信じていた節がある。
しかも子どものころからずっと。
「命を大切にしない」ということではなく、何か起きた出来事をポンと受け入れる。
あまり抵抗なく。
ん~。
お金に近いのかな。
よく、ファイナンスの語源ってフィニッシュ、関係を終わらせること、っていうけど。
関係を切ろうとするのだろうか。
ただ、最近、心境の変化があって。
生命の愛惜の希薄さに、美的感覚を感じていたことに対し、それもカタチを変えた単なるエゴなんではないかと。
なぜそう思うようになったかは、語れない。
いろいろ重なって、ふわって思った。
自宅の1Fから2Fにのぼる階段は、ちょうど真ん中で90度に曲がるのだけど、その真ん中にちょこっとした踊り場がある。
その狭い空間に座って読書をするのが心地いいのだけど、たしか、そこでなんか携帯ゲームをしたときだったかな。
この漠然とした気づきから、諦めていた眼の緑内障と白内障の症状に対して、ちゃんと医者に診てもらおうって思ったのです。
これはぼくの中では、むちゃくちゃ大きい一歩です。
他者に説明するには結構困難な感覚。
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