修身を学ぶ会富山
第33講 敬について
改めて、敬することのできる人物に出逢う難しさと大切さを感じた。
この講は、以前にもぼくに新たな視点を与えてくれた大事にしたいと思う講である。
今回新たな気づきは、神仏に対して畏敬の心を発することについてだ。
そもそも「敬」とは何か。
敬とは、自分より優れたものの一切を受けれてこれを吸収し、その一切を奪い取って、ついにこれを打ち超えようとする強力な魂の、必然の現れである。
このように説明されている。
つまり、敬とは、誰かを敬いひれ伏し、なんだか弱い自分をさらけ出す態度のような印象があるが、本質は全く逆なのだ。
自分より優れている一切を奪い取り、乗り越えていってやるという強い生命力の現れなのだ。
スポーツの世界だと分かりやすい。
自分より優れた選手のことを尊敬する。この尊敬する気持ちは、当たり前だが、自分が劣っていることを認めているわけではない。絶対、もっと優れた選手になってやるという内に秘めた情熱が「尊敬」となって現れる。
では、神仏の前で、「礼」と「敬」を表現する態度とは、どんな意味があるのか。
何か見えない力に頼みごとをするような弱い態度ではなく、この宇宙を創造したであろう無限ともいえる力を、我が力にしたい、さらには、その力をも凌駕するような存在になりたいという強烈な願望の現れが、神仏の前での「礼」と「敬」なのではないか。
そう考えていくと、自分は神仏の前で本気に「敬」の気持ちを出せているだろうかと、省みた。
これまでの感覚を振り返ると、格式高い神社仏閣で参拝するときほど、つい、心を茶化したいという気持ちになる。
この場所から逃げたい、対峙したくないという気持ちが沸き起こる。
もちろん表面上は、礼儀どおりの参拝を行い、そういった心に沸き起こる矛盾をごまかそうとする。
この講には、尊敬する人物に、密接に近づこうとできないのは、生命力の弱さだと、断言している。
生命力が強いほど、賢人になれ、英雄になれ、豪傑になれるんだと。
ここまで読んでいくと、自分は、さほど生命力がないことを悟る。
ただの人間なのだ。
豪傑にもなれない「ただの人間」だということを認めたくないからこそ、神仏の前で、神仏と目を合わすことを恐れるのかもしれない。
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