修身を学ぶ会富山
今回は、参加者がスムーズに集まることができず、「修身教授録」ではなく日々の出来事を語りながらの修身を学ぶ時間となりました。
その話の中で振り返った最近の想いをシェアできればと思います。
これは以前にもブログにも書いた記憶がありますが、改めてまとめて書き記したい。
3つの揺らぎ。
①みたらしソース部(ソース原理)の学びで
どのタイミングでその気づきに出会ったのかは定かではない。
人は、物語を創造する力と、誰かの物語に貢献する力がある。
この2つの力と、いのちの声を聴くこと。
これがソース原理で大切なテーマなんだと思っている。
いろんな話をしていく中で、ふと思ったこと。
「なぜ自分は多くの方のど真ん中名刺をつくりたい、関わりたいと思っているのか」
すぐに返答できる答えはある。
その答えに至るまでの長い道のりの物語も、2時間ぐらいかけて丁寧に語ることもできる。
実際、これまでに何度も自分の物語を語ってきた。
だからこそ、揺るぎない自信もある。
「しかし、もし自分の両親が別の仕事をしていたとしたら、それでもこの仕事をしているだろうか」
「自分が切り開いたわけではなく、環境に依存しているだけではないか」
そういった漠然とした問いが生まれたのだ。
自分が積み上げてきたものが、一気に崩れ落ちるかもしれない感覚に襲われた。
しかし、この問いを考えることこそ大事なんじゃないかと思えた。
②親の役割
ど真ん中エディットワークには多くの問いが設定されている。
その中で、実践していくための2つの力として「座右の問い」と「志」がある。
座右の問いは、ハンドル。
日常を生きるなかで出逢う選択の瞬間をいかに自分でハンドルを握り運転するか。
そのための自分への問いかけだ。
志は、アクセル。
自分はどんな人物になりたいのか、諦めずに前進するために必要な力となる。
ぼくにとっての座右の問いは、
「富山と大阪の二拠点生活をしているからこそ、子どもがみていない時にでも、常に胸を張れる生き方ができているか」
志は
「子どもの言葉を信じきる大人になる」
このどちらにも、家族と子どもの視点がある。
妻と子どもたちから気づかされた多くのこと。
そして、自分の人生のテーマとして流れている家族との向き合い方を学ぶこと。
この座右の問いと志は、自分の内面を開放して生まれた言葉だ。
自分でもすごく納得できていると信じていた。
しかし、これは本当か?
いのちの声なのか?
これは、一個人としてのテーマを結局家族に向けて、課題を直視していないだけなのではないか。
あたかも他人に認められてもらいたいと思う承認欲求の現れなんじゃないか。
ただ、逃げているだけなのかもしれない。
本当はどうなんだ。
③身体知
毎朝のニューアースの音読会からの学び。
物語を手放すことの大切さと同時に、肉体と共に三次元で生きる私たち。
三次元空間であり、言葉を操る以上は、そこには時間の流れというものが存在し、言葉と時間と身体が必ず重なっていくことになる。
すると、物語はある。
むしろ、物語として世界を認知することしかできないのではないか。
そういった感覚に襲われる。
それをあえて受け入れたときに感じたのは、身体の大切さだ。
身体があることの意味。
身体の反応で生まれる感情の意味。
この身体とどう向き合うのか。
ここは、想像の何十倍も大切なように思える。
身体と向き合う時間をどうするか。
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