第35講 批判的態度というもの
何かを学び、自分のものにしたいと願った時、傍観者的立ち位置からではなく、内側に飛び込む姿勢でしか獲得できない学びがあることは確かだと思う。
ただ、その学びが、本当の自分の身となる知になるかどうかは、内側に飛び込んだままではなく、必要なタイミングで外側に出て、傍観者的立ち位置になった時であろう。
そのときに、自分を省みることができ、内と外との二つの視点のおかげで立体的な学びとなり、自分の血と肉になる。
この内と外を行き来する自由が自分にあることは、常に忘れてはいけない。
教える側も学ぶ側も、共に大事にすべきことのように思う。
ただ、命をかけた学びとなると、そうはいかないのかな。
内を命ある人生を生きることとするなら、外にでるということは死を意味する。
自らの死を通した人生で最高の学びと、どう対峙するのか。
これは生き様だろうなと思う。
少し話は脱線したのだが、内と外を行き来きする自由と、そこで学びを得ようするときの姿勢は、どうあるべきだろうか。
どんな学びでも、自分の暮らしと繋がっているかどうか、身体を通って生まれてくる感情に新しく得た学びをぶつけているかどうか、そこに、滞りではなく動きや営みがあるかどうか。
そういった姿勢が大事なように思う。
そのためにも、批判的態度になっていないかどうかを意識しておく必要がある。
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