修身を学ぶ会富山
第2講 立志
真に志を立てるということは、この二度とない人生をいかに生きるかという、障がいの根本方向を洞察する見識、並びにそれを実現する上に生ずる一切の困難に打ち克つ大決心を打ち立てる覚悟がなくてはならぬのです。
学年のスタートに「立志」をテーマに掲げて授業を行う森先生が、すごくまぶしい。
あぁ、この瞬間がもどってきたなと感じる。
「戻ってきた」という感覚があるということは、日常の中で大切だと思っている気持ちが揺らいだり、薄れたり、変化しているということなのだろう。
初めて「立志」について触れた時と、今では、何が違うのだろうか。
素直に「本当にそうだな」と心の深いところで共感したことを思い出す。
純真さというか。
今回、その純真さが、自分の心にあることに気づくことで、ほっとしたのと同時に、少しばかり曇りかけていた自分にも気づく。
純真さに曇りを感じるのは、いろんな意見や生き方に触れたことで視野が広がったという肯定的な変化ではなく、何か「ほんとうの自分」を守る壁があることに気づいたからだろう。
その壁はいらない。
今、感じている志を言葉にするならば2つある。
「民藝的佇まいがある生き方」と「矩を超えない生き方」。
後者は、孔子の有名な章句からの引用。
子曰く、
吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして 惑わず。
五十にして天命を知る。
六 十にして耳順う。
七十にして心の欲するところに従いて矩を超えず。
志学
而立
不惑
知命
耳順
従心
自分自身が50歳を超えてきたからこそ、「六 十にして耳順う(どんなことを聞かされても動揺せず、腹を立てず、素直に聴くことができる)」という生き方の大きさを感じる。
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