人間は他人から愛されている間は、その深さはわからないといってよい。 そして多少とも他人を愛そうと努力してみて、如何にその困難なかが分かりかけると共に、その時はじめて人は、かつての日に受けた愛の深さ、並びにそれに気づかず、おろそかにしていた事に、ようやくにして思い至るものである。 森信三
なるほど確かに。 そう思う出来事が最近あった。
自らを振り返っても、確かにそのとおりなのかもしれない。
十数年前の家族会議で、父の放った言葉に心が動き、実家であるヤマシナ印刷を手伝うという覚悟を決めた理由もここにあるように思う。 会社が打つ手なしという状態と知りながら、会社を続けると決断をした父の言葉がはじまりだった。
もしあの時、ぼくが独身だったら、もしぼくにまだ子供が授かっていなかったら。 同じ決断ができただろうか。
愛するということを少しずつ学ぶ道の中での父の言葉だからこそ、心が動いたのかもしれない。
ど真ん中エディットワークのワークショップでは「後付けOK」という注意事項を載せている。
人は、連綿と続くからだに流れている血、幼少のころの家庭での育ち、社会にでて気づいた教え、この血と育ちと教えで、今の自分を作り上げている。 その中で「ご縁」があり、自分にとってのなすべきことに出会う。
そのなすべきことに向き合ったとき、誰かを幸せにしてあげたいというニーズに気づく。 気づいたのであれば、今できることは何かと、実践がはじまる。
そんなひとつなぎの物語を編集していくことが、ど真ん中エディットワークだ。
だが、ここに実は時系列とは違う事実があったりする。
つまり、目の前のなすべきことに向き合っていく中で、大切にしたい気持ちなのか、大切にしたい対象物に出会う。 そして、自分に正直にその大切な気持ちのままに実践しようとしたとき、 「あ、そうか、自分は愛されていたのか」 という血育ち教えと出会う。
もちろん、血育ち教えの中には、愛と正反対の感情や現実もあるのは確かだ。 それでも、そのことに気づいていくことが、自分が成長していくための道なのかもしれない。
つまり、物語的には、血育ち教えがあるからこそ、天職に出会い・・・、なのだが、事実は、天職に没頭して実践していくことで、血育ち教えに気づき、となるパターンがほとんどかもしれない。
人を愛そうと思うとき、自分が愛されていたことに気づく。
つまり、後付けでもいい。 自由に編集してもいい。
また、だからこそ、今即実践が、結果を生む。
Yorumlar