映画「窓際のトットちゃん」
妻と観に行きました。
“光のイメージを追いかけても、 意識の目覚めには至らない。 そうではなく、闇を意識化する ことだ。” - C.G.ユング
物語は、光と闇を行き来しながら、血と育ちと教え、特に時代に翻弄されながら、成長していく子どもの姿が描かれている。
現実の物語をベースにしているこということもあり、驚くような展開や結末が待ち受けているわけではないが、だからこそ、物語にある真実性が強く映しだされる。
この映画だけに影響されたわけではない。
しかし、自分の中にある闇を見つめることにつながった。
犠牲者
「私が我慢すれば円満になる。それは家族なのだから仕方がないことだ」
「我慢することが、家庭を守ることになる」
子ども
「好きで選んだ道じゃない。」
「その道を選ばせたのは、君なんだからね。それを責められる筋合いなんかない」
「ひとりにさせてもらいたい」
つぶしや
「どうぜ言ったって無理なんだから、あきらめよう」
「変化を求められる状況はみたくない。それがアニメやドラマの世界だとしても」
「自分がやりたいことなんかないよ。求められたからやっただけ」
売春婦
「利益をだすことに、なぜか嫌悪感をいだく」
特に家族の前では犠牲者が顔をだす。さらに、つぶしやが出てくる。
「魂を傷つけられたくない」
妻に言われた言葉だ。
その一言を発し、妻は一日寝込むことなる。
揉めないように、争わないようにと、自分が犠牲者になることで調和を目指していた。
それが最も相手を傷付けることになっていた事実。
魂を傷つけられたくないという言葉は、
「あなたの魂をあなた自身が傷つけている姿を見たくない」という言葉だったのかもしれない。
自分の中に光があることを知っているにも関わらず、それを表現することを恐れ、闇に助けを求める。
自分の心の中にこんなにも大きな闇が潜んでいたことに驚きを隠せない。
大学の道は、明徳を明らかにするにあり。
なぜ陰徳ではなく、明徳なのか。
その意味を噛みしめたい。
「我慢するって発言したら、100円罰金ね」
今はまだ、妻と闇を共有したにすぎない。
共有といっても、僕よりも妻のほうが理解していそうだ。
共有したこと、意識化したことで、一体どういうことになるのか、分からない。
向き合ってみようと思う。
“光のイメージを追いかけても、 意識の目覚めには至らない。 そうではなく、闇を意識化する ことだ。” - C.G.ユング
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