映画 ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ
ジョーカーの続編
前作を息子と車で移動中に鑑賞しました。
最後の衝撃的な真実と行動に、人の心が崩れていく様を感じ、居た堪れなくなったことを覚えている。
その続編になるのだが、前作のインパクトが強すぎて、続編を観る気持ちになかなかなれなかったのだけど、向き合ってきました。
しかも、平日の夜の時間帯ということなのが、観客はぼく一人という貸し切り状態での鑑賞。
正直、鑑賞した夜は眠れなかった。
ここからはネタバレも続きます。
また考察に関しては、ぼくの勝手な思考実験です。
(息子が描いたジョーカー)
映画の冒頭「Me and My Shadow」というアニメから始まる。
このアニメは、ジョーカー1を振り返るような内容になっている。
自分と自分の影。
どちらが世の中にスポットライトを浴びるかで競い合い、影が勝利する。
影がスポットライトを浴び、やりたい放題演じ、遅れて「惨めな自分」が舞台に登場する。
影は、立場が悪くなると思いきや、「惨めな自分」にマイクを手渡し、さっさと消え去る。
そんなアニメだ。
このアニメが本編のすべてを物語っているともいえる。
アニメでは、主人公の中に、心優しく障害を抱えたアーサーと、狂気のジョーカーが同居しているように描かれており、映画を観る側も、その多重人格さと、ジョーカーの社会を嘲笑う態度と狂気に興味を抱かせるのだが、本当はジョーカー1で描かれていたのは、そういうことではなかったはずだ。
ひとつひとつのピースが詰将棋のように埋められていき、行き場を失ったアーサーの悲しみ、夢でもあったみんなを笑いで幸せにする道化師という仮面があることで起こしてしまった事件。
確かにそこには、アーサーの強い影が存在していたことは事実だが、大衆の集合的影を投影させたカリスマ的ジョーカーが、アーサーの中に存在していたわけではない。
いや、違うな。
実際は、ジョーカーは誰の心の中にも存在している。
だからこそ、アーサーの中にだけ存在しているわけではない。
タイトルの「Folie à Deux」(フォリ・ア・ドゥ)はフランス語で「二人狂い」という意味で、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害のことだそうだ。
もう一人とは、レディガガが演じるリー。
タイトル通り、リーは妄想が感染した精神障害だったのだろうか。
ぼくは違うのではないかと感じた。
リーは、精神障害を研究する学生であり、人の影(シャドー)と影がつくり出すキャラクターが社会にどれほど影響を与えることができるか、つまり、社会全体がもつ集合的シャドーの可能性を学ぶため、自らが精神障がい者として演じ、観察と実験をしていたのではないか。
リーは、この世はエンターテイメントであり舞台なんだと、自分が創造する世界観を実現させるために、無意識の意識化を目指すのではなく、無意識の常駐化を目指したのかもしれない。そこに楽園があると。
そのリーの企みに、アーサーと社会は巻き込まれていく。
アーサーからすれば、妄想の世界と現実の世界の違いがわからなくなっていたはずだ。
映画では、敢えて観客に戸惑いを与えるような構成で、観客を混乱させている。
ぼくも、一体今見ている映像は、どこまでが現実でどこまでが妄想なのか、分からなくなり、常に疑念を抱きながら映画を観る羽目になった。
これは監督の戦略に違いない。
リーは歌う。「アーサーと山をつくりたい」と。
すごく違和感を覚えたセリフのひとつだ。
山ってなんだ?
無意識から目覚めないためのシンボルを作りたかったのかもしれない。
真意は分からない。
この映画は一体なんだったのか。
観終わって数時間が経ち、ぞわぞわ感じてきたのは、裁判での小人症の友人の姿だ。
小人症の友人は、「私は本当のアーサーを知っている」と語る。
見た目で人を判断しない、心やさしいアーサーのことを。
映画の中では、唯一、アーサーに自分の影の投影をせず、ありのままの人間として見ている人物だ。
この小人症の友人が、アーサーをほんとうの自分に気づかせる鍵となる。
ぼくの心の中の正体を語ると、小人症の友人とアーサーが議論する場で、ひょっとしてアーサーの中のジョーカーが目覚め、友人に危害を与えるのではないか。
その恐怖と、暴力的風景を望む少しの好奇心がぼくの中にあることに気づいた。
これは、ぼくの中に住むジョーカーなのだろう。
結果的に小人症の友人の存在が、リーが仕掛けた戦略をすべて台無しにすることに成功する。
アーサーは語る。
「私の中にはジョーカーはいない」と。
小人症の友人のような、誰かにとって、ほんとうの自分に出逢う呼び水となる存在になるにはどうしたらいいのだろうか。
時間経過とともに、存在のすごさに感動を抑えきれなくなってきた。
映画の終盤では、偶然起きた爆破事件により、アーサーを信仰する大衆に助けられ車で逃げることになる。
しかし、アーサーは車の後部座席でふっと我に返り、車から飛び降りるのだ。
これは前作と全く同じシチュエーションなのだが、前作では結果的に、そこから大衆のカリスマとして祭り上げられることになるのだが、今回は違った。
自ら車を降りたのだ。
自分がハンドルを握れていない、どこに連れていかれるか分からない車から、意識的に逃げる。
まさに、自分の人生を自分で運転したいと願ったのだろう。
そこでもう一度リーと出会う。
(このときのリーは、アーサーの頭の中の妄想だったに違いないのだけど)
リーに愛を告白し、もう一度リーの願うエンターテイメントの世界を目指し歌ってほしいと、願う。
しかし、リーは「もう歌えない」と断り、警察に捕まることになる。
そして最後の結末へとつづく。
結末を見て感じたのは、この映画の一切がアーサーの2年間の妄想だったんではないかということ。
もしそうだとすると、リーの存在も、リーとの会話も、小人症との会話も、すべては自分の頭の中での物語だったのだろうか。
そうだとしたら、2年間の妄想の中での対話を通じて、自分がトリガーとして生み出したジョーカーというキャラクターはすでに浄化され消えてなくなっていたことになる。
アーサーには、それだけの向き合える力があったことになる。
「Folie à Deux」(フォリ・ア・ドゥ)はフランス語で「二人狂い」という意味で、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害のこと。
この二人狂いというのは、アーサーとリーの二人ではなく、自分と自分の影の二人ということになる。
「わたしは一体何者なのか」
自己との対話を通して、自分と自分の影との同一化から解脱し、魂が救われるまでの物語、愛の物語がこの映画だったのではないか。
やはり、最初のアニメがすべてを物語っていた。
虐待を受けた自分
母親を愛した自分
夢を追い求めた自分
最愛の人から裏切られた自分
誰からも評価されない自分
障がいのある自分
偽りの自分
愛を知りたい自分
自分の子どもを残したい自分
そのすべての自分を超越する自分
ジョーカーではない自分
アーサーでもない自分
ほんとうの自分
自ら作り上げた物語に、自分の知り合いを登場させ、その登場人物と自分と自分の影を対話させながら、ひとつひとつ玉ねぎの皮を剝ぐように、変容していったのではないか。
その苦難の物語、目覚めへの物語だったように感じる。
それを理解するほどに、最後の結末はツライ。
PS,もし映画をみるなら、必ずジョーカー1を観てから!
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