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執筆者の写真yamashina shigeru

あたりまえの奥行



不思議な人だ。

人の縁の面白さと、そこにある人知を超えた力。

なぜ、あなたが目の前に現れたのかー。

 

そんな人の縁というものをこよなく愛してる気が

遭った瞬間に感じた。

 

この感覚は共鳴が起きる。

そこに不思議な人だという印象がのる。


そして、その直感は本物となった。

直感を現実とするかどうかは、結局無から生まれる一歩による。


以下、岩井くんの文章。



2018年9月6日、この世に生を受けて26年の月日が経った。

真面目で緊張しいの男の子。

数学だけが取り柄であったため、大学は数学科に進んだ。

真面目に生きてきた僕を変えてくれたのは「旅」だった。ヒッチハイクで全国を回り、地球一周を通して、目の前の人に喜んでもらう経験をした。

 

ドイツで出会った本の中に「働くとは、自分の時間を誰かの喜びに変えること」と書いてあった。

その1行が僕の「あたりまえ」になった。


僕には、ひいおじいちゃんがいる。

ひいおじいちゃんは、日露戦争で活躍し、国から表彰状をもらうほどの人だった。

その後、小松市の大杉という山の中にある町に住み、周辺の山を買い占め、今の小松の建物を建築する際に一気に木材を売りさばいた。

その儲けで、僕の実家もあるそうだ。

 

この大杉という町は不思議なところだ。

現在は4件ほどの住居のみだが、1921年には157件の家があった。

ここでは「家替え」が激しく行われていたようだ。


家替え

お金のあるAという小さな家があり、お金のないBという大きな家がある。

Bは明日生きるためのお金もギリギリとなっていた。

そんな時、Aから声がかかる。

「家替えすっかぁ?」これを受けると、AとBは、家も物もそのままで、住んでいる家族のみが移住する。

小さい家に住んでいたAは、大きな家に住んでいたBにお金を渡す。

Aは生き延びることができ、大きな家に住もうと懸命に働く。

 

愛があって成り立っていた大杉の文化だ。

こんなお話も聞いた。ほうきを買いにいく。

自分が使うためだけにほうきを買うのではなく、5、6件お隣さんまでみんなで使うためのほうきを買うのである。

 

自分を大切にしながらも、みんなが助け合い、自分以外の人、物、そして、大杉という居場所を大切にしていたのだろう。

〝自分のもの〟という所有の概念がなく、自分が使っている、持っている、住んでいるが、それらは〝みんなのもの〟という概念だったのではないだろうか。


 人の知識、経験、専門知識、頭脳、感性、長所。

 僕はこれらを「あたりまえ」と定義した。


誰かの「あたりまえ」は、その人のためだけにあるのではなく、みんなで使ってよいもの。

僕と出会う目の前の人の「あたりまえ」も、僕が使っても良いのである。

 

夢がある。

その夢のために使わせてもらう。

どれだけ大きな夢を描こうがそれは叶う。

なぜなら、みんなの「あたりまえ」が僕の夢の味方であるから。

 

同時に、誰かの夢の一部であれるよう、本気で「あたりまえ」を育んでいく役目がある。


自分にとっての「あたりまえ」は、誰かにとっての「あたりまえ」ではない。

一人ひとりの見えている世界は違っている。

無理な足し算をしなくとも、誰かの「あたりまえ」を知るだけで、救われる人がいる。

生きるのが楽しくなる人がいる。

 

今この瞬間に喜びが溢れてくる。

「あたりまえ」は隠すものでも、守るものでもない。

出し惜しみなく、与えるものだ。


 一人ひとりの生きてきた道から生まれる「あたりまえ」は、

 唯一無二の価値があり、

 それは所有している感覚もないが、

 常に育まれ、誰かに影響を与えている。


中学生の僕は、26歳がカッコイイ男性の年齢だった。

先月、そんな憧れの歳になってしまった。

 

ひいおじいちゃんをたどる旅が、僕のぼんやりと描いていた理想の世界と繋がっていた。

ひいおじいちゃんのおかげで、今の僕がある。僕も100年後の誰かの役に立てるよう、「あたりまえ」を育んでいく。


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