昨夜、久しぶりにぼくがオーナーを務めるコワーキングスペース・イーラボでイベントを開催した。 プレゼンターが夢を語り、みんなで全力応援するイベント。
コロナ禍になって、ほぼイベント開催はなくなったので、本当に久しぶりのイベント開催となりました。
話は飛びますが、ど真ん中エディットワークで、「ど真ん中へ歩む道」を説明するときに、毎回おなじみのたとえ話をする。
あなたの目の前に相談者がやってくる。 20代後半でエネルギッシュな若者だ。 「わたしには、夢がある。その夢をぜひ聞いてほしい」と。 語ってくれる彼の夢は、地域の未来に必要なこと、そしてそれを達成するための道筋もなんとなく調査済み。 つまり、夢の内容に関しては、矛盾はない。 「ぜひ、わたしを応援してほしい!」そんな相談だ。 応援とは、時間的または金銭的応援が含まれる。
あなたは、この場合どうしますか?
そんなたとえ話だ。
結論を言ってしまうと、ぼくなら彼にひとつ質問をする。 「夢の話は理解した。ところで、君は今どんな仕事をしているの?」と。
その質問に対して、 「語った夢の話と、今のぼくの仕事は、特に関係性はありません」 と答えられたとする。 そうなると、たぶんぼくは応援できない、という話だ。
▼このど真ん中へ向かい道を紹介するときにお話させてもらうたとえ話。
ぼくは、なぜ応援しないのかというと、
・そこに文脈がない
・夢をあきらめずに続けていく安心感がない
つまり、自分のなすべきことに目を向けてない状態で夢を語っている姿に対して、信頼があまり感じられないということだろう。
もちろん、誰もがそう判断するということではなく、ぼくの考えだというだけなのだが。
補足すると、金銭的時間的応援は厳しいなって思うけど、別に否定したいとは思わない。 ただ、いったんぶっ倒れるぐらいチャレンジしたのか、動いたのか。 協力者を募るフェーズは、実はもう少し後ではないか。 そんな本音が沸き起こる。
冷酷なまでに。
夢とは、今目の前にあるなすべきことや使命に本気で没頭することで気づく、一筋の願い。なのではないか。
実は、イベントのプレゼン内容がそんな感じだったのです。
ただ、そんな内容だなと思いつつも、参加者はみんなしっかりとプレゼンターをサポートし多くのアイデアを出していた。
その姿をみて、ぼくの反省はどこかというと。 世の中の最初の一歩なんぞ、みんなこのたとえ話にでてくる彼のような感じがほとんどなのではないか。
であれば、ここを応援するコミュニティってやっぱり大事なのかな…と。 腑に落ちてないけど、ちゃんと一度考えてみようと、自分の思考を俯瞰することができた。
昨夜のプレゼンターの夢は、30年間思い描いていたそうだ。 そしてついにやってみたいなという想いに至る。 具体的に動き始めるのは今からだということだった。
30年。
むしろ、30年動けない状態になっていた「呪い」は何なのか。 そこにどんな社会の問題が潜んでいるのか。
ここに興味を抱く。
追記。 人生には変容するタイミングもある。
これまでの人生とは全く違う思いもよらない結末というか。 その場合は、非線形なことが起こるのだろうとは思うが。
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