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執筆者の写真yamashina shigeru

人は何のために学ぶのか

実践型読書会

「答えようとするな、むしろ問え」

自分としての「冒険の書」を歩む


孫泰蔵氏の著書「冒険の書」を活用します。

もし自分であればどんな問いを立て、冒険に踏み出すだろうか。

大切な問いがあったはずなのに、見失ったことは。


真の発見の旅とは、

新しい景色を探すことではない。

新しい目で見ることなのだ。


The real voyage of discovery consist not in seeking new landscapes, but in having new eyes. (本書2ページより)


自ら発見した「問い」からはじまり、他者との対話、自分との対話、本との対話、AIとの対話を通じて、「答え」ではなく、「新しい目」「新たな問い」を見つけていきましょう。


6回コースの第5回目の様子を紹介します。




第5章

学びほぐそう

UNLEARN




第5章は、まずこの問いから始まる。



自分は自分なりに、より良い未来に貢献してきたという自負を持っていた。 しかし、本当にそうなのだろうか。

これは、今まで真剣に働いてきた人間ほど、厳しい問いなのではないか。

ぼくも印刷会社を手伝うことになったときに、まず最初に出逢った問いに近い。


「印刷会社を手伝うということは、環境に負荷をかけることになるのではないか。」

「環境に負担をかけずに、売上を伸ばすことは不可能なのではないか」

「社会を進歩させる新たな価値を生み出すことが難しい産業なのに、敢えて事業を続けていくことの意味はどこにあるのだろうか。」


こういった問いだ。




著者は、若者に対して、「親のいうことを聞くべきではない」「自分の人生を生きろ」と伝える。

しかし、多くの若者は「自分は何がしたいのか分からない」という。


ここで著者は、この若者の発言の奥に、何が潜んでいるかを解き明かす。




「何がしたいのか分からない」という言葉をもう少し具体的に言い換えるならば、「自分の存在価値がどこにあるのか分からない」ということになる。


つまり、若者は、本当に何がしたいのか分からないのではなく、社会との距離が近くになるにつれ、社会が求める暗黙の答えに躊躇しているのだ。


自分には人に認められるほどの価値を生み出す能力がない、だから自分の存在価値が分からない、と。



果たして、この思い込みは一体どこからやってきたのだろうか。

それこそ、資本主義社会の性質からだ。


存在価値とは、自分自身を商品と見立てた時に、お金がきちんと払われるような価値
やりたいこととは、お金になるようなことの中で自分がしたいこと


つまり、資本主義社会の中で「やりたいこと」として認めらえることは、自分の商品価値をあげるようなことであり、かつ、自分が本当にやりたいこと


単純に、自分のやりたいことを発言すればいいだけなのに、すごく難しい問題を問われていることになる。

そして、何も答えられなくなってしまうのだ。

何も答えられない自分には、存在価値がないんだ…、と。


ぼくもこれまで幾度となく、同じような経験したことがある。

「こんなことをやってみたいのだけど」と、自分のワクワクを抑えきれずにアイデアを人に話したとき、

「それはお金になるの?」という返事をされた時だ。

そう言われると、なんだか自分が、世の中のことを何も知らない子どものように思えてしまう。




では、人間には一体どんな価値があるのだろうか


実は、ほとんどの人が必ず経験し、学んできたにも関わらず、その価値を気づけていないことがある。

それは何かというと。


人間は、生まれたばかりの時は、誰かの手を借りないと生きていけない。 つまり人間は、この世に生を受けた最初から与えられ、与えることしか知らない存在なんだ。 だから、人に分け与えることは人間の本性だということ。

学ぶとは真似ることであり、誰もが生まればかりの時は、お母さんやお父さんの愛情を受けて育ったはずだ。

ただ、ただ与えられることを経験し、「与える」ことを学んだはずだ。

だからそこ、「与える」という行為が本能的な喜びであり、価値として持っているのではないか。



この世に生まれてきた意味は、与えることによって与えられる。いや、与えることによって、こちらが与えられてしまう。(ユウタ チカウチ)

お金にどう変換できるか、が意味であり価値ではなく、「与えること」。

そして、与えれば、自動的に意味は与えられるんだと。

このシンプルで本能的な答えが、資本主義社会では通用しない。


お金や、資本主義社会を否定するのではなく、お金に変換できない価値が、いまの社会の中では、極端にスポットライトが当たらない状態になっていることが問題なように思う。




第5章が最終章ということで、まとめとして根本的な問いが紹介されている。

これまでにある多くの問いや歴史は、すべてこの2つの問いがきっかけなのではないか。



1,人間として善く生きるとは、どういうことか


2,公共の利益とは、いったいなんだろうか



この2つに問いに対して、各時代の権力者、学者、科学者、天才たちが、いろんな状況の中で、新しい発見をし、人間社会は進歩してきた。


個としてどう生きるべきか。

組織としてどうまとまっていくか。


最初はすばらしい課題解決の方法だったことが、世の中の変化によって矛盾が生じる。

その矛盾をメタ認知し、修正できるかどうかが問われているのだろう。




実は、この根本的問いを踏まえると、最初の問いをさらにアップデートできる。


最初の問いはこれだった。

「自分は自分なりに、より良い未来に貢献してきたという自負を持っていた。しかし、本当にそうなのだろうか。」



この問いをこんなふうにアップデートできるのではないか。


もし、今から100年後の人間から「あの時代にこういう手を打ってくれたからこそ、今を生きる私たちはさらなる取組みを積み重ねることができるのだ」と、言われるためには、今何ができるだろうか。



それを踏まえて、「教育」について考えてみる。

教育とは、未来を創ることなのだから。


つまり、教育とは「大きな問いに立ち向かっていく姿を、後に続く者たちに見せること」なのではないかと。


本書の最後は、「人は何のために学ぶのか」という問いを投げかけられて終わる。


 

ど真ん中エディットワークでは、必須課題にはしていないが、できる限り自分の「大志」を言語化してほしいと、伝えている。


大志とは、自分の命があるないに関わらず、私利私欲なく、成したいこと。

自分の心で強く、自ら思ったことだ。


大志を抱き生きる姿こそ教育だと、本書は伝えてくれている。

この大志を抱くことは、他の生き物にはない人間に与えられた大切な力だと思っている。


そして、大志を本物にしていく、実現していくためにこそ、学びがあるように思う。



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