逆境に出逢ったとき、人は何を求めるのだろうか。
本であり、 友であり、 師であり、
宗教なのかもしれない。
このすべてに共通していることは何か。
苦難や危機に際して人が本当に必要とするものは、必ず言葉であって、金や物ではあり得ない。 「暮らしの哲学」池田晶子
確かに、人に相談するのは、その人に出逢うためというより、「言葉」に出逢うためだ。
本を読むのも同じことかもしれない。
生涯を賭けてでも「言葉」に出逢わなくてはならないのは、自らが救われるためだけではない。自らが「救い」という、大きなうねりの一部になるためである。 個で世界を救うことはできない。しかし、世を救うものに連なることはできる。個は世界ではないが、個はいつも世界のかけがえのない一部である。 「不滅の哲学 池田晶子」若松英輔
言葉に出逢いたいと願う瞬間は、常に逆境に立たされた時だ。
しかし、言葉に出逢う意味は、自分が救われるためにあるのではなく、自らが光となるためにあるということ。
ここに希望が存在しているのだろう。
では、言葉とは何なのか。
文字とは何か。
文字は、神話と歴史との接点に立つ。 文字は神話を背景とし、神話を受継いで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割を担うものであった。 したがって、原始の文字は、神の言葉であり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。 もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、「次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった。」ということができよう。 「漢字」白川静
人は物語の世界で生きることに、心地よさを感じる生き物である。
むしろ、物語がなければ、自分の現在地点を認識できなくなる。
生存していくために、必要不可欠なものの一つが「物語」だろう。
その大いなる物語である口伝として伝わる神話を、如何に後世に残すか。
そこに文字が必要だった。
「文字は神」だったということだ。
この神である文字を音として発することは、「呪」であり、「言霊」として捉えてきたのだろう。であれば、
語るのはコトバであり、われわれの方が、宿られた場所なのだ。 「事象そのものへ!」池田晶子
視点を変えると、そんな風に言えるのかもしれない。
ど真ん中名刺を作るために対話をしていると、これに近い感覚に陥る瞬間がある。
自分が頭で考えて言葉が思い浮かぶという感覚ではなく、言葉がまずあり、その言葉に手を伸ばして拾いに行く感覚だ。 つづく。
人間が言葉を話しているのではない。 言葉が人間によって話しているのだ。 生涯に一度でも、この逆転した視点から、自分と宇宙を眺めてみるといい。 人生とは言葉そのものなのだと、人は必ず気がつくはずなのだ。 「死とは何か」池田晶子
人生とは言葉そのもの。
確かにそうなのかもしれない。
ど真ん中エディットワーク。
つまり、「エディット=編集」とは、人生とは言葉であり物語を生きることを創造すること。
物語を自らが編集をして、手綱を持てばいいのではないか。
これがど真ん中エディットワークだ。
昨日開催したど真ん中エディットワークで、こんな感想をいただいた。
「大志」の説明を聴くまでは、ひとつひとつのパーツが、すべて散乱しており、一体これがどう繋がるのか、全くイメージできなかった。
それが、「大志」の話を聴くことで、ようやく繋がった。
大志から逆算して、血育ち教えを考え、ど真ん中を考えてみたい。
すごくいい編集だと思う。
時系列、論理的な視点を一度外してみる。
※ど真ん中エディットワークで説明させてもらっている「大志」とは、自分の命があるないに関わらず、次の世代に何を残したいのか、何を創造したいのかという願い。この願いが、いつか実現し、次の世代に影響を与えていくであろう循環だ。
不滅の哲学 池田晶子
若松英輔 著
読了
Comments