人のご縁というは、不思議なものだ。
過去の小さな小さな出来事が、ゆっくりとご縁がつながっていき、
いつのまにか、自分の目の前に必要な存在となって現れる。
青木先生との出会いは、そんな感じだった。
小矢部市という人口3万人という小さな町で、大切なご縁が続いていく。
以下、青木さんの文章
はじめまして。
私の仕事は医者です。
父も医者で、祖父は歯医者です。医者になった理由は特にありませんでした。
家系だから、医者になった方がいいのかな?くらいの気持ちでなりました。
しかし今は、この職に出会えた事が天命であると感じています。
母方の父も藩医であったことも不思議とご縁を感じております。
みなさんにお伝えしたい話があります。
私はたくさんの患者さんの希望を添えない形で看取ってきました。
私は病院で、人の病気だけを治す仕事でした。
心臓の血管を掃除したり、心臓に機械をくっけて、止まらないようにする仕事を、病院でやってきました。
現在は違います。
患者さんと患者さんの家族と、一緒に病気を治して相談、勉強し合える仕事に変わりました。
外来に足を運んでくれる患者さんの体を診させてもらったり、家族の健康相談に乗ったりしています。
また、患者さんのお家へ伺って、体を診させてもらったり、お茶を飲みながら本人や家族さんから、悩みを聞いたり、世間話をしながら患者さんと笑って過ごしています。
地域の検診でお年寄りや幼児を診させてもらう事も楽しい仕事です。
時には、あと1ヶ月で天国に行ってしまう患者さんとご家族に、その方らしい最期を迎えるためのお手伝いをさせてもらう事もしばしばあります。
この変化の原点となった出来事があります。
5年ほど前、病院で仕事をしていた時、心臓が風船のように膨らんで動きが弱くなり、長くは生きられない60歳の方(患者Kさん)を診させてもらう機会がありました。
能登でお米をつくっているおじさんでした。
術後、歩けた時は、
「先生!おらは死ぬまで家におっからよ〜よろしくたのんわ。」
「まかせとかれ〜」
私は簡単に返事をしました。
しかし病気が進行し、何をしても息苦しく歩けなくなった時、自宅にいることが難しくなり、泣く泣く病院に入院されたのです。
それからのKさんは毎日がつらそうでした。
心臓に必要とされる沢山の飲み薬。
痛み止めの点滴。
ご飯を食べる力はなく、毎日1.5リットルもの量の栄養剤を24時間かけて入れます。
寝たきりで動けないので、おしっことうんちはオムツにします。
看護士さんに毎日替えてもらうのです。
息の詰まる狭い部屋で天井を見つめながら過ごします。
娘さんは一日に2、3時間そばにいます。それ以外はだれもいません。
心地よい風も入ってはきません。
状態としては、心不全による終末期(その時点の医療では、よくできる術がない状態)でした。
一日20時間ほどは、知らない天井をみながら過ごす生活が、それから2ヶ月間続きました。
点滴がたくさん入るので、身体中がぶくぶくにふくれて、顔も別人のようになりました。
点滴を止めようと思いましたが、「体に栄養を入れないことは、病気に負けたことになる。」そんな空気が病院全体にありました。
また末期がんでない患者さんに、モルヒネを投与し苦痛をとるという医療は、死を早める可能性が高く、当時の病院倫理に反しているという暗黙の認識があり、私も例に漏れずに、そのルールを優先してしまっていたのです(死を早めるかも?という曖昧な理由のみで、苦痛を点滴で取らなかったのです)。
頭の中では、点滴を止めて水を少々飲む程度にすませることが、一番負担が少ないとわかっていました。
しかし「患者さん第一」に考えられなかった当時の私は、栄養剤や強心剤の点滴をやめる事ができませんでした。
さらに一ヶ月が過ぎ、Kさんは見るからに弱っていきました。
「だいじょぶ。」
「うん。」
「かわりない。」
緊急手術、病棟回診、学会発表、カンファレンス、当直と様々な業務の忙しさを理由に彼との毎日の言葉少ない会話の意味や、表情の理由を考えないよう逃げていました。
心のどこかでは、「もうどうしようもない。同僚も納得してくれている。これ以上彼の苦しい状態を看つづけるのは私もつらい。はやく決着がついてほしい。」とさえ思っていたように思い出されます。
しかし、逃避し続け麻痺していた私の心ですら、ある種の違和感が日増しに膨れ上がったのです。
彼には笑顔がない。
私は何をしているんだろう?
苦しみながら点滴をして最後を迎えるために病院にきてもらったのだろうか?
家族はどうしてあんなに辛そうなんだろう?
わたしが彼にしてあげれることは、点滴治療だけななのだろうか?
そもそも彼の事をどれだけ知っているのだろう?
苦痛をとってあげられないのだろうか?
彼は今何が一番したいんだろう?
死を前にして、彼は何を考えているのだろう?
気が付けば、私の眼前にあったのは、当人の想いがまったく置き去りの医療行為だけでした。
彼の患部のみを診て、彼という「ひと」はまったく見ていませんでした。
1週間後、彼は病院の渇いたベッドの上で悲しそうに亡くなりました。
病院での死は、どこか「負けた」感が医者の間に漂います。
患者さん置き去りもいいところです。
私が本当にしたかったことは何か?
彼にしてあげられたことは何だったのか?
私は考え問い続けました。
そして答えは出ました。
それは死に向かう彼の希望する場所(自宅)で、彼や家族の話をたくさん聞き、彼や家族の事を知り、皆でよく話し合って、彼の望む最期の形(点滴もせずに、痛みを取る事だけして最期を迎える)を準備させて頂きたかったという事でした。
家族ともたくさん話し合い、終末期の状態を理解してもらい、彼の望みを叶えるためにチームで日々看病、付きそう事をしたかった。
なるべく苦しまず、「ああ楽だなあ。気持ちいいなあ。家におれて最高だなあ。」そう思って頂きたかった。
みんなで病気と闘い抜き、寄り添い、付き合いって生き抜く。
それこそが彼だけが持っている「命のバトン」。
ともに生きぬく様を見て感じて、遺される家族に「命のバトン」を渡してもらいたかった。
最期を迎える患者さんの望みを叶えるために、日々家族と共に考え、看病し共に闘い抜いた場合、家族に心残りとなる「しこり」はできなかったはずだ。
私は沢山の方の「命のバトン」を「渡せず」に、看取らせてもらってきました。
その沢山の方に教えていただきました。
最期を迎える時には、大切な為すべき過程があるという事。
本人の望む「最期の形」の準備を、皆でさせてもらう事の大切さ。
家族や大切な人に、そばで看取ってもらう事の大切さ。
遺される方々に、当人の生きぬく様を見届けてもらう事の大切さ。
すなわち「命のバトン」を渡し渡される事の大切さ、でした。
お前にはまだまだやる事がある。
神様はそう仰しゃっているのでしょうか?
気がつけば私は、小矢部で終末期のがん患者さんをはじめとした、在宅医もさせてもらっています。
先日も49歳の乳がんの女性を、彼女の実家で両親、高3の娘、高1の息子、夫に温かく見守られつつ、看取らせていただく事ができました。
凛とした空気の中、全員で涙を流しながら、優しく体をさすりながら、抱擁をしながらの見送りでした。
彼女と初めてお会いした時は「余命1週間の絶対安静」と当時の主治医から言われていました。
しかし、適切な痛みのコントロールと家族でのたくさんの話し合いによる想いの作り上げと、チーム医療での寄り添いの結果、大きな安心と笑みがうまれました。
「安心」って不思議ですね。
本当に気を安らかにして、元気にしてくれるんです。
余命1週間のはずのNさんは、娘さんの晴れ着を一緒に買いに行き、無事見ることができました。
書類の整理をしっかりできました。
食べたいものを沢山食べて、外食も2回、デートも1回、家族で花見をし、たくさん泣いて、たくさん笑っての2ヶ月半をみんなで元気?に過ごされました。
彼女の伝えたい「命のバトン」が、家族にしっかりと伝わった最期でした。
布団の上で迎えた最期は、温かく、凛とした、そして不思議ですがとても美しい空気に包まれていました。
別れ際に彼女のお母さんが言われた言葉。
「せんせい。彼女を看取らせてもらえて本当によかった。ありがとうございました。」
今までで一番晴れやかで素敵な笑顔でした。
私はKさんを始めたくさんの方から、大切なことを教わりました。
これからも教わり続けると思います。
ありがとうございます。
残念ながら病院で亡くなる場合、未だほとんどのケースで本人の望む最期の方は叶えられないのが現状です。
これから自宅で最期を迎えるケースが増えると予想される中、一人でも多くの方が、ご自分の命のバトンを渡して、望まれる最期を迎えていただけるように。
この先皆さんとのご縁が、さらなる力を生み出すと知っています。
ご縁に感謝いたします。
私は自分の仕事が大好きです。
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