毎年恒例
お盆は富山市の真国寺でキャストとして働かせていただいている。
今回新しい試みのひとつで、「お墓参りコンシェルジュ」を始めた。
例えば、ご高齢の方がひとりでお墓参りに来られた場合、荷物を持ってあげたり、線香に火をつけるお手伝いをしたり…、一緒にお墓参りを同伴してお手伝いをするというサービスだ。
これは、夏の暑さが毎年厳しくなり、想定外な危険を伴う可能性もあるからだ。
ただ、今年は暑さではなく、災害レベルの雨が降り続くことになり、これまででは考えられないほどお参りに来られる方が少なかった。
気温も肌寒いぐらいで、熱中症などを気にすることはなかった。
それでも、悪天候の中、しっかりとお墓まりに来られる方がいる。
ある子連れのご夫婦が来られたとき、傘の本数が足りず、子供も動き回り、子供が転ぶか、親が雨でずぶぬれになるか、、そんな状況だった。
そんなとき、さっとキャストの一人が、お寺の傘をもっていき、ご夫婦に手渡した。
「ぜひ利用ください」
と。
なんて素敵な機転が利くのだろうと、、同じキャストではあるがその俊敏な動きに感動した。
同時に心の中にひとつ疑問を感じたのだ。
新サービスの「お墓参りコンシェルジュ」と「今の機敏な対応」。
片方は有料、片方はもちろん無料の善意の行動だ。
たとえば、傘のレンタルが100円だとしたら、機敏に困っている人に傘を渡せるだろうか…。
この心のモヤモヤだ。
この件に関して、住職はすばらしい見解を言われた。
ご高齢にもかかわらず、ひとりでお墓参りに来るということは、家を出る瞬間からある程度覚悟をもってきているはず。
その覚悟を尊重する必要があるのではないか。
お墓参りコンシェルジュは、すばらしいサービスだが、本来は、事前に告知し予約をいただくカタチがいいのではないか。
と。
家をでる瞬間から覚悟しているはず。
この心をまったく理解できていなかった。
この場合の覚悟には「命」も含まれているだろう。
確かにそうだと思えるおじいさんに出会った。
そのおじいさんは、見た目明らかに80歳は超えている。
腰はほぼ90度近くに曲がり、足もあまり上にあげることができない。
お寺の前は坂道になっているので、足を上にあげられないと、一歩一歩がすごく小さくなる。
なんとか、なんとかの感じでお寺にたどり着いたおじいさん。
さすがに見かねて、
「少し座って休憩してはいかがですか?」
と声をかけた。
しかし、声は明らかに聞こえていたはずだが
「あれを取りにいかなあかんから」
と小さく返事をし、一直線にお寺の横に準備してあるホウキと柄杓を取りにいった。
そしてそのままお墓参りへ。
その足取りを見ていたが、ゆっくりとはしているが、立ち止まろうとする雰囲気は一切なく、ただ一心にお墓参りをされ、そのまま隙なく帰路につかれた。
無駄のない動きだった。
大事な方のお墓参りだったのか、それともお盆の大切なルーティンであるのか。
それはわからないが、覚悟がそこに見えた。
最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一、生き残るのは変化できる者である。
ダーウィンの言葉だ。お盆の最後に住職が話された内容だ。
人類が常識だと思っている多くの生活様式。
男女の生き方、家族のあり方、国家のあり方、思想、宗教、文明…
そのすべてが
①戦争
②飢餓
③疫病
この3つを克服するために人類が編み出した発明だそうだ。
確かに考えてみれば納得がいく。
そして、この3つを克服しようとしている人類だからこそ、国家、思想、宗教、文明等のアップデートを望む声があがっているのだろう。
そこに新型コロナという影響があり、判断に混乱を招いている。
しかし、さらにこの3つよりも深い土台があるのではないか。
それこそ
①人は必ず死ぬ
②人生は一度きり
③人はいつ死ぬかわからない
この変わらない真理があることを理解し受け入れつつ、それを前向きに自分なりの方法で、乗り越えようと覚悟をもつ。
その行動が、おじいさんの行動だったのかもしれない。
それは誰も否定することは困難だ。
その覚悟をすべてわからないなりにも、受け入れた上でどんなサポートができるのか。
それが問われたように思う。
現実を受け入れて上で、覚悟をし行動すること。
その行動自体は30年以上同じ行動かもしれないが、
体力があるからできている行動と
覚悟を決めてしている行動では、
同じ行動でも趣が違うように思う。
その行動こそ、本人よりむしり周囲に変容を促すトリガーになるのではないか。
PS
今回の「お墓参りコンシェルジュ」。
これも同様で、変化を恐れず挑んだことで気づいたことがとても多い。
実践、または一度カタチにすることで気づくことはある。
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