今朝は、朝活大学素読会でした。
大学は、ここからはじまります。
大学の道は、明徳を明らかにするにあり。
大学の三綱領
明徳を明らかにする
民に親しむ
至善に止まる
明徳とは
誰もが生まれながらにして与えられた徳
人間の我、私心、誤った欲で曇っていくそれを払いのけ、明徳を明らかにしていく
明徳の対語は、玄徳となります。
木で例えるなら、明徳は、枝、葉、花になります。玄徳は、根です。
明徳は、目に見える徳。玄徳は、目に見えない徳となります。
生まれながらにして与えられている明徳とは、具体的になんだろう、、、と考えてみた。
まずは、手が手の役割をする、目が目の役割をする、心臓が心臓の役割をする、肝臓が肝臓の役割をする、それ自体が明徳なのかもしれない。
赤ちゃんが、何度も何度もこけながら、頭をぶつけ、立ち上がり歩こうとする姿。
これも明徳なのかもしれない。
人は生まれながらに、成長をしようとする姿がある。
個人的には、明徳とは、ひとりひとりの才能なのだろうと思っている。
才能を社会の中で活かしている状態、その実践こそ明徳なのではないか。
明徳が明かになった状態になると。
今まで別個だと思っていたものの間に通じる心が生じる。
この通じる心=一体感=仁と呼ぶ。
「仁」という漢字を観察すると、人が二人とある。
つまり、二人の間に通じる心(民に親しむ)だ。
また、明徳が明らかになることで、物事を正しく判断し、行動できるようになる。
(至善に止まる)
天には天のルールがある(天道)
地には地のルールがある(理)
天と地を合わせて、道理と呼ぶ。
人には人のルールがある(義・道義)
至善に止まる=道義や道理にかなっているということ。
たとえば、桜。
自分はひまわりでもなく、朝顔でもない。桜なんだと明らかにする。
桜となれば、春になり花を咲かせる。
その満開の桜は、太陽のおかげであり、雨のおかげであり、大地のおかげであり、虫たちのおかげである。
それを楽しみに集う人々。
桜は、太陽も雨も大地も人も、そこで生まれる歌も会話も自分なんだと理解する。
そして、桜は短い生涯だということも知る。
しかし、花が散り、その散る世界もまた、人々の心を捉え、微生物の食べ物となり、大地の養分となり、また来年の力となる。そこにある道義、道理を理解する。
この世界の営みが、リーダー論なのだ。
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