子どもの頃、ひとり遊びが好きで、あの没入感が大好きだった。
実家の2Fの子供部屋の横に、洋風の障子戸で繋がっている8畳の部屋がある。
その部屋に幾何学的な模様のカーペットが敷いてあり、子ども心にいろんな妄想と冒険心を呼び覚ましてくれた。
そのカーペットの模様を利用して、めんこを並べていくのだ。
当時、めんこはもう昔のおもちゃになっていたのだが、近くの駄菓子屋で売っていて、くじを引き、くじででた数のめんこがもらえる。
特賞がでると、顔の大きさぐらいの大きなめんこがもらえる。
それにハマっており、段ボールいっぱいにめんこをもっていた。
ある意味コレクションとして集めており、本来のめんこで遊ぶことをしていなかった。
子どもの世界の中の地域通貨のような役割だった。
そのめんこをカーペットの幾何学模様を利用して並べていくのだ。
敵と味方を想定し、まず自分のお気に入りのめんこを利用して味方の陣を組む。
中心に大将となるめんこを準備し、その周辺をいろんなめんこが覆い守るのだ。
味方の陣ができれば、次はそれをどう攻略するか、、、。
敵陣を配置していく。
マンガのキングダムの戦場のような感じだ。
結構工夫して立体的に配置していくのだ。
地下、2階、3階があるようなイメージ。
味方の陣をどう切り崩していくか。
お互いの大将や副将の強さはどれくらいなのか。
ここから、無限の妄想がはじまる。
そして、自分は神になれるのだ。
すべてを決定する力が自分にある。
しかし、その神の力をただ行使するだけでは面白くない。
だから、ルールや縛りを設けるのだ。
積み上げためんこを、ひとつのめんこで弾き、どう崩れるか。
崩れたときはどんなルールになるのか。
縛りは、人知を超えた偶然の力を利用することで、さらなる創造力は掻き立てる。
出来る限り、味方が不利になるように縛りを足していく。
その中で、どう戦うのか。
逆境を楽しむのだ。
大げさかもしれないが、「生」と「死」を味わっていた。
遊びに没入すると、自分は誰なのか、今はいつなのか、ここはどこなのか、分からなくなってくる。
そんな遊びに熱中できたのは、子どものころに無限にも感じるような自由な時間があったからだ。
人は、何もしない時間を生きることができるのだろうか。
もうひとつ思い出したことがある。
99%予想どおりの出来事が起こることが想定できた時、それをどうにかして壊したくなる欲求だ。
条件は複数ある。
・99%予想どおりの出来事が起こることが想定できた時
・その結果は、一般的にはいい出来事であること
・その出来事の中心がぼくであること
・みんなにとってはいい結果なのだが、すでにその結果への興味が薄れている状態。
こういった条件がそろうと、現場から消えてなくなりたいという欲求だ。
すごく居心地が悪くなる感覚を覚え、そこから逃げたくなってしまう。
自分はそこに居てはいけないのではないかと。
これは共感してくれる人はいるのだろうか…。
人と語ったことがないのでわからないが、そんな心の感情を思い出した。
これは今もある。
恐怖、恐れ、逃避に近い。
これが、映画「君たちはどう生きるか」を観たあとに、思い出したこと。
詳しくは書くことができなかったが、後半の逃避行動は、思い出したくもない気持ちの悪い感覚だ。
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