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  • 執筆者の写真yamashina shigeru

才能を活かす

更新日:2022年7月15日

地元の中学校で「働く大人に学ぶ講演会」にて20分程度お話させていただきました。

その内容をダイジェストで紹介します。



テーマ

「才能を活かす」


14歳のみんなが「疲れる」と思う瞬間ってどんな時だろう。

「今日の授業は疲れた」

「部活で疲れた」

など。


でも授業も部活も同じ「疲れた」という言葉を使っているが、どこが疲れているのだろう?

アタマ?

ココロ?

カラダ?


実はぼくらは「疲れる」という言葉を頻繁に使うけど、その内容は大分違うのではないか。




ある有名アスリートの話。


ある有名アスリートが、テレビ出演が終わり帰宅する。

「今日は、アタマが疲れたな。ココロも少し疲れている。」

「ただ、カラダは全く疲れていない。」

アタマとココロとカラダの疲れのバランスが悪い。

「カラダは疲れてないのに、脳は疲れているという信号を出している。」

「これは整えないといけないな」

ということで、100mダッシュを10本程度行い、カラダを疲れさせて寝るようにしている。

 

このエピソードは、ぼくの好きなエピソードだ。

ぼくも同じような感覚を大事にしている。

自分の脳が発している「疲れている」という信号は、正しいのか正しくないのか。

しっかり確認する作業だ。


 

たとえば「充実した一日とは何か」を考えてみよう。


充実した一日とは? 自分でやると決めたことでココロ、アタマ、カラダの内、2つ以上を一定量利用し心地いい達成感がある状態。

こんなふうに定義できるのではないか。


つまり、3つのうち1つだけが特別に疲れているような状態は、身心にとってよくない

もしそういう状況や環境に置かれているのであれば、その場から逃げてもいいと思う。

そこには、ストレスだけが存在し、成長はない可能性がある。


この3つのバランスを大事にする。 




もうひとつ、例を出そう。


昨日のテストは、苦手教科のテスト範囲が広く大変だった。しかも、部活動の友達とも最近うまくいってない。 でも、今日は、日帰りでUSJに行く日。丸一日全力で遊び、最高の一日になった。 心もカラダもリフレッシュできて、明日から頑張れそう!

テストが終わった次の日の出来事だ。

この文章にすごく矛盾があることに気づくだろうか。


そう、先ほどのアスリートの話に近いのだけど、テストを受ける消費エネルギーと、日帰りでUSJで全力で遊ぶ消費エネルギーを比較すると、明らかに後者のUSJのほうがエネルギーは使っているはず。

にも関わらず、リフレッシュできて楽になったという文章なのだ。


つまり、誰もが経験則でわかっているが、あまり意識していないこと。

自分が嫌だなと思うことは、少しやるだけで「疲れる」が、自分が大好きなことなど、いつまでやっても「疲れ」を感じないことがあるということだ。

それどころか、やったほうが疲れがとれることがある。



自分にとってどれだけやっても疲れを感じないことは何だろうか?

自分が充実感を味わえることは何だろうか?

その答えを見つけて仕事にすればいいのではないだろうか。


これが、ぼくからの提案だ。



先ほどの、ココロとアタマとカラダは、こんなふうに言い換えることもできる。


ココロ = 思っていること

アタマ = 考えて言葉にしたこと

カラダ = 実際に行動したこと



つまり、自分がココロで思っていることと、アタマで考えて人に話す言葉と、実際の行動がズレていない状態

この状態が、疲れを感じさせない仕事なのではないか。


ちなみに、ぼくは、そんな仕事は何かを一緒に考えてサポートする仕事をしている。



ではもう少し深堀してみよう。

なぜ、どれだけやっても疲れを感じないことを仕事にしたらいいのか?


それは、その仕事の中にきっとあなたにとっての才能が活かされているからだ。


これは、逆のパターンを考えると分かりやすい。

すぐに疲れてしまう仕事があるとする。その仕事をしているときに、果たして自分の才能を活かしているだろうか?

答えはノーだ。

 

つまり、疲れを感じないことを仕事にするということを言い換えると、自分の才能を活かせることを仕事にするということだ。

もしかすると、自分の才能を活かせることを仕事にするって、あまりにも当たり前すぎることかもしれない。

でも、忘れないでほしい。

 


では、才能とは何か?

これも定義が必要だ。


才能とは? 欲求を満たそうとするときに、どれだけやっても飽きずにやり続けることのできること (みんなの才能研究所より)

こんな風に定義ができる。

つまり、芸能人やアスリートだけが才能があるわけではなく、誰もが必ず特別の才能を持っているはずだということ。

社会にとって有益な価値を提供できる才能がもてはやされるだけで、どれだけやっても飽きずにやり続けることのできることは誰にも1つや2つあるはずだ。

それが才能だ。


その才能は何か、それに気づくことが大事だ。

気づく為に大事なのが、友達になるのだろう。



さて、もうひとつ深堀しよう。

自分の才能を活かした仕事をするということは、自分にとってすばらしいだけではない。

それ以外に大切なことがある。


それは、

誰もが、年齢・性別・場所に制限されず、自分の才能を活かして働く自由があるのは、3千年近い人類の歴史の中で、今が初めての時代だからだ。


わずか50年前でもそれは不可能だった。

男女によって就ける仕事と就けない仕事が存在し、場所に制限された仕事も数多くあった。

それが、令和という今の時代は、特別の人だけではなく、誰もが自分の才能を活かす仕事をする自由がある

 

これはすごいことなんだ。

なぜか?


たとえば、ガラケーとスマホ。

どちらを利用することが、社会の進歩につながるでしょうか?

これは考えるまでもなく、明らかに「スマホ」だ。

多くの方がスマホを使うことで、快適なサービスやアプリが増え、価格も下がっていく。

 

これと同じである。

「今」という時代が、自分の才能を活かす仕事ができる自由があるのであれば、その生き方をすればいい。

その自分の選択が、次の時代を進歩させることになるということだ。


これはぜひ、理解してもらいたい。



ただ、もし自分の才能を見つけて仕事ができたとしても、きっと次の壁にぶつかる。


どんな壁かというと

「才能を活かすということは分かるが、お金を稼がなければならないでしょ」という壁だ。


どうすればお金を稼げるのか?


式にすると

社会の要求 × 自分の才能

この掛け算をうまくできた人間がお金を稼げるようになる。



だが、ほとんどの人が陥る落とし穴は、お金を稼ぐということを意識するあまり、いつのまにか「社会の要求」がもっとも大事だと思ってしまうことだ。


14歳ならば、

「先生のアドバイス」

「両親の想い」

「クラスの空気」

などがそうだろう。


それは、本当に大切か?

そしていつのまにか、不等式が成立してしまう。


違う。

 

なぜ違うのか。

ひとつの医学的例をだそう。

ぼくらは、自分の目で世の中を見ている。

だから、3Dを3Dで見ていると思っている。

それが間違いだ。


ぼくらは、まず3Dの情報を、目の網膜に2Dに変換して映す。

その2D情報が脳に伝達され、そこでもう一度3Dに変換されて、「見てる」と思っている。


ひとりひとりの脳の処理能力や特性は違う。

ということは、目の前の景色をみんな同じように見ていると信じているが、みんな違う認識で目の前の景色を見ているのだ。

 

そう、常に自分が主体であり、主役なのだ。

これを忘れてはならない。


気を付けないといけないこと。

それは、常に、社会の要求よりも自分の才能を活かすことのほうを優先的に選択すべきだということだ。


将来、この問題は付きまとうようになる。

これも覚えておいてほしい。


さあ、今日の講義をまとめます。



①どれだけやっても飽きないこと(才能)を仕事にする。


②それが自分のためになり、世の中のためになる。


③社会の要求より、自分の才能を活かす道を選択し続ける。


④今回の内容のように、生理学、心理学、歴史、医学等、多くの知を利用して人生を切り開く仮説を考える癖をつける。


以上。

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