祈り合う世界
手放す経営
坂東 放レ 著
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今回の本で、身体に残った言葉はふたつ。
「森」と「祈り合い」だ。
森
自分の名前が「森(しげる)」なので、どうしても目に留まってしまう。
本書には、手放す経営を目指してきた著者のこれまでと、その変化、そして実践の方法が書かれている。
その過程でコミュニティが生まれ、やがてラボへと発展していく。
そのラボを説明する際に登場するのが、森の生態系だ。
どちらかというと、里山に近い存在として表現されていた。
ここで、ふと思った。
「手放す経営」も、手放していいのではないか。
例えば、ぼくの活動を挙げてみる。
・朝5時からの音読会
・修身を学ぶ会富山
・朝活大学素読会
・養蜂、はちみつうか
・弓道
・絵本製作サービス cocolomi
・ヤマシナ印刷
・ど真ん中名刺
・駄菓子屋
・コミュニティスペース LiTa Studio ELABO
ほかにも、いろいろな取り組みがある。
これらは、一見すると、それぞれ独立した活動のように見えるかもしれない。
しかし、ぼくのなかでは、すべてがつながり合っている。
場所も、目的も、目指す未来も、複雑に重なり合っている。
切り分けることなどできないのだ。
つまり、あらゆる活動が菌糸のようにつながり合い、豊かな森を形成している。
そのひとつひとつが、とても大切なものだ。
上下もなければ、優先順位もない。
ひとつの尺度では測れないのだ。
会社経営だから優先順位が高い、ということもない。
全部でひとつの森になっている。
もし、このなかのどれかひとつが、自分の心のなかで突出して大きな価値を持ち始めたとしたら。
むしろ、森全体のバランスが崩れ始めていると捉え、あえてその活動を抑えるという行動に出るかもしれない。
もしそれが会社経営だったとしても。
ひとつの活動を大きくすることだけが、豊かな森をつくることではない。
それぞれがつながり合い、互いに影響し合いながら、全体として豊かになっていく。
持続可能な森を考えていく。
そんなイメージが広がった。
そういう意味で、森のほんの一部の会社経営が管理する仕組みか、自律型の仕組みかということより、自分がソースまはたサブソースとしてかかわる、森を織りなしている一切の活動の全体としてどうかを考えていくことかもしれない。
祈り合い
これは、とんでもない誤読から始まった。
本書の226ページに、こんな言葉がある。
会社ができることは、できるだけ一人ひとりを尊重できる環境を整えること。それだけです。とはいえ、僕自身、まだ渦中にいます。仕組みをつくることと、心情的なものとの折り合い。この矛盾と、しばらく向き合っていくのだと思います。
経営や組織のリーダーとして活動するときに立ち現れる、「理」と「情」の問題を伝えているのだろう。
理を優先すべきか、情を優先すべきか。
これは、リーダーにとって常に問われるテーマなのかもしれない。
ところが、ぼくはこの文章を、
「心情的なものとの祈り合い(いのりあい)」
と読んでしまったのだ。
最初は「祈り合い」と読んで、なんとすごいことを書かれているのかと思った。
しかし、すぐに読み間違いだと気づいた。
正しくは「折り合い」だった。
ところが、不思議なことに、誤読した「祈り合い」という言葉のほうが、自分のなかではしっくりきたのだ。
会社のできることは「祈り合い」しかない。
この世界は「祈り合い」だ。
そんな世界が、頭のなかに広がった。
おもしろいでしょ。
「折り合い」には、異なるもの同士が、互いに譲ったり調整したりしながら、共存できる場所を探すという意味がある。
仕組みと心情。
組織の論理と個人の思い。
合理性と人間らしさ。
経営には、そのどちらか一方を選ぶことのできない場面がある。
だから、両者のあいだで折り合いをつけていく。
けれども、「祈り合い」とは、相手を自分の望む形に変えることではない。
自分の正しさを押し通すことでも、相手に譲歩を求めることでもない。
互いに異なる存在であることを認めながら、相手の存在を大切に願うこと。
もちろん、祈るだけで問題が解決するわけではない。
それでも、お互いの根底に「祈り合う」という姿勢があったなら、組織のあり方はずいぶん変わるのではないか。
「信頼」とも違う趣が、「祈り合い」にはある。
この言葉を、ゆっくりと身体を通して考えていくと、自分の人生の課題にもつながっているように思えた。
祈り合う世界とは?
すでに「ある」ものへの大いなる信頼。
そんな言葉が浮かんだ。
自分の力で何もかもをコントロールしなくてもいい。
世界は、自分が思いどおりに動かさなくても、すでにそこにある。
そのことへの信頼が、安心感をもたらしてくれる。
と同時に、その裏側には、
すでに「ある」ものへの依存。
あるいは、自分が決断すべきことからの逃避。
そんな可能性もある。
これは、ぼく自身の人生のテーマだと思っている。
「すでにあるもの」への信頼に安らぎを感じる一方で、その信頼を理由にして、本来自分が決断すべきことから逃げているのではないか。
信頼して委ねることと、決断から逃避すること。
ここに、どんな違いがあるのだろう。
いや、そもそも違いを探すこと自体が、問いの立て方として違うのかもしれない。
実は、自分に本来備わっている「力」から逃避しているだけなのではないか。
信頼して委ねるとは、自分に力がないから委ねるということではない。
逆だ。
自分に力があることを知っているから、信頼して委ねることができる。
決断から逃避するとは、これも自分に力がないから逃避するのではない。
自分の力があることを気づいているのに、気づかないふりをするために逃避するのだ。
つまり、力があることを知っているということだ。
その「力」を受け入れるか、受け入れないか。
信頼して手放すことと、ソースとして継承すること。
ここに、大きな宝物が眠っているように思える。
そういう意味では、単に誤読しただけの「祈り合い」という言葉は、いまの自分に必要な言葉だったのかもしれない。
自分がソースを継承するカタチで受け取った、朝5時からの音読会。
このコミュニティが、これからどうなるのか。
そこに不思議と、一切の不安がない。




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