実践型読書会
「答えようとするな、むしろ問え」
自分としての「冒険の書」を歩む
孫泰蔵氏の著書「冒険の書」を活用します。
もし自分であればどんな問いを立て、冒険に踏み出すだろうか。
大切な問いがあったはずなのに、見失ったことは。
真の発見の旅とは、
新しい景色を探すことではない。
新しい目で見ることなのだ。
The real voyage of discovery consist not in seeking new landscapes, but in having new eyes. (本書2ページより)
自ら発見した「問い」からはじまり、他者との対話、自分との対話、本との対話、AIとの対話を通じて、「答え」ではなく、「新しい目」「新たな問い」を見つけていきましょう。
6回コースの第2回目の様子を紹介します。
第2章のはじまりの問いはこちら
そもそも、子どもたちは、なんで学校に行くのだろう
学校にいくことが「当たり前」となることで、学校の外で学んだ人は「無教育」のレッテルをはることになるという矛盾。
教える側(教師)が、がんばって教えれば教えるほど、学ぶ側はどんどん受け身になってしまうという矛盾。
学校に行くことと、学校に行かないことは、どれほどの差があるのだろうか。
学ぶことと、遊ぶことは、どれほど違いがあるのだろうか。
昆虫博士
鉄道博士
ポケモン博士
何かひとつのことなら誰にも負けない知識をもっている子。
その知識は、学校に行くことで学んだのだろうか。
それは教育なのか、遊びなのか。
「本来「遊び」と「学び」と「働き」はひとつのものだったのに、それが全く別のものだと分けられてしまった結果、すべてがつまらなくなってしまった。」
しかしこれは、決して批判することではなく、ただそのときそのときのベストの選択をしてきただけ。
社会の工業化
↓
生活の中で、「遊び」と「働き」の区別がはじまる。
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学校の中で、「遊び」と「学び」の区別がはじまる。
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「働き」や「学び」から逃れるための「遊び」の発展
エンターテイメント消費の普及
「どうして夢中になにかに没頭したまま大人になっていくことができないのだろう」
ここで利用している「大人」と「子ども」という言葉の概念。
これは最初からあったわけではなく、発見されたのだ。
発見されるまでは、子どもは、小さな大人と見られており、区別はなかった。
natural man (自然人) どんな文明にも毒されていない自然な状態の人間。自然人であれば、お互いに自立し、平等で、完全に自由。(ルソー)
そんな理想的な人間は、いるのか?
ルソーは、それこそ「子ども」だと。
だからこそ、子どもたちを毒されている社会から隔離して育てることが教育なんだと。
ここで、著者は提言する。
「子どもを大人と区別することこそ、人類最後の差別ではないか」
「子どもには、これをする権利はない。」
「子どもなんだから、仕方がない。」
子どもである、大人である。
それも個性ではないか。
教育を変えたければ、まず子どもの見方をかえるところから始めればいいのではないか。
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