いつから学校が生まれたのか。
いつ、公的な教育が生まれたのか。
いつ、人類の生活の中に、仕事という概念が生まれたのか。
噂のコテンラジオを聞きながら妄想が広がりました。
この物語は、半分合ってて、半分間違っているぐらいで読んでいただきたい。
歴史は前後するし地域差もある。
つまり、ぼくの妄想に少しだけ情報を足した程度のお話だ。
人類にとって、はじめは、生きることと、働くことの区別はなかった。
生きることと働くことは同時に進行し、その中にワクワクを見つけることもあるような生き方だ。
生活の中の美、労働の中のトキメキなのか。
そこから分業や身分の差というものが少しずつ生まれていく。
漁師、ガラス職人、農家、、、。
そうなると、そのひとつひとつのカテゴリーの中に知識が蓄積し始める。
その蓄積した知識を学ぶため、弟子入り制度が誕生する。
がしかし、まだこのタイミングでは、師弟関係の教育は生まれているが、座学でみんなで一斉に学ぶという教育には至らない。
ここから学校教育が生まれる。
それは政府にとって必要だったから。
なぜならば、国が大きくなり、国を統治しようとすると、多くの役人が必要となった。
その役人に必要なスキルが、読み書き算盤である。
読み書き算盤ができる人材を育てなければ、国の統治と貿易ができない。 よって、学校教育が始まる。
つまり、学校教育は役人を作るために始まったのだ。
疑問に思ったらお金の流れを追え。
そして大きなパラダイムシフトが起きる。
子供の発見だ!
大人と子供は違うという発見。
人類の歴史から考えるとすごく最近のことなのだろう。
子供は仕事をせずに学校で学ぶ時間を与えられた。
およそ16年働かずに、ただ学ぶという時間を与えられたのだ。
それは、今の時代は当たり前なのかもしれないが、これはすごい画期的なことだったようだ。
では、なぜ学ぶ時間を与えられることができたのか。 身分の格差、奴隷による労働力アップ、技術の発展による仕事の効率化。
いろんな理由によって、子供たちが働かなくても生活できるようなシステムが出来上がっていった。
そうなると、仕事とは、如何に効率的であるべきか、または奴隷をいかにうまく利用するかという思考になっていく。
そして時間を生み出し、余暇を楽しむ。
国の発展に伴い、生活と労働が分離し始め、教育が誕生し、教育を支えるためにさらに仕事の効率化が重要視され、貧富の差も生まれてくる。
すると、時間が余る。
その時間の過ごし方として趣味やアート、スポーツを楽しむという、これまでは、生活や仕事の中に見出していたワクワクを、外の世界に求め始めた。
そして、生きること、働くこと、楽しむこと。
この3つは別々なものであるという世界が誕生する。
螺旋的発展。
発展とは、視点を変えれば原点回帰である。 ヘーゲル
事物の螺旋的発展
世の中がどんどん発展していっているように思うが、実は、螺旋階段を上るように、何度も原点に戻るような発展をしている。
螺旋階段を真上から見れば、ぐるっと回ってまた同じところにもどっているように見える。
しかし、横から見ると、一段上に上がっている。
発展とはそういうものだと。
ここから時代はどこに進むのか。
人類は、もともと誰もがど真ん中を生きていた。
むしろ、それ以外の選択肢がなかったのかもしれない。
それがついに一段あがり、衣食住の安全が確保された上で、自己実現に向けて、ど真ん中を生き始める。
ぼくらはたぶん、人類の歴史を作っている。
これは妄想のお話だ。
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