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  • 執筆者の写真yamashina shigeru

身体感覚を磨く

実践型読書会

「答えようとするな、むしろ問え」

自分としての「冒険の書」を歩む


孫泰蔵氏の著書「冒険の書」を活用します。

もし自分であればどんな問いを立て、冒険に踏み出すだろうか。

大切な問いがあったはずなのに、見失ったことは。


真の発見の旅とは、

新しい景色を探すことではない。

新しい目で見ることなのだ。


The real voyage of discovery consist not in seeking new landscapes, but in having new eyes. (本書2ページより)


自ら発見した「問い」からはじまり、他者との対話、自分との対話、本との対話、AIとの対話を通じて、「答え」ではなく、「新しい目」「新たな問い」を見つけていきましょう。


6回コースの第4回目の様子を紹介します。




第4章

探究しよう

EXPLORE


「なぜ好きなことだけして生きていけないのだろうか。」

この問いから始まる。


さらに、この問いの奥に潜んでいる問いは、

「そもそも、なんのために努力する必要があるのだろう。」

という問い。


さらにもう一歩進めると、

そもそも「役に立つ」「役に立たない」とはどういうことなのか。


このように言葉にしてもらえると、はじめて考えてみようかと思うが、日常の中で、こういった問いが浮かぶかといえば、そうとう厳しいなと感じる。

同様に、当たり前になりすぎていて、疑問にすら思わないことはいっぱいあるだろう。


余談になるが、二人のお客様から似ている仕事の依頼が続いている。

どこが似ているかというと。

・印刷の予算が決定している。(補助金等で)

・予算をいい感じで使い切りたい。

・だから、チラシ(印刷物)を作りたい。

そういった案件だ。


こういった案件はたまにある。

大人の事情?だなって感覚で、それ以上の探索や、なぜ社会にこういった構造があるのかという問いまで考えることはない。

ましてや、そのアクションが社会にどういった影響を与えているのかということも全く考えてこなかった。

しかし、ここに敢えて問いを立てるとすると、どんな問いを立てることができるだろうか。




さて、本編に戻る。


役に立つ、役に立たないとはどういうことかという問いに対して、マルセル・デュシャン「自転車の車輪」というアート作品が紹介されていた。

普通に考えると、誰のためにもならない、役に立たない、意味がないことをあえてアートとして表現した作品だ。


ここで、人間の習性が紹介される。

人間は、モノや出来事に対して、役に立つか立たないかという意味を見出そうとする習性がある。

これは人類の生存戦略のひとつだ。

外の世界にある出来事に対し、意味を見出すことで、世界を理解し、自分の行動に反映していく。

また意味を見出すことで、情報を記憶することが容易となり、将来の判断基準に反映できる。

そのことで生存確率を高めていくのだ。


ただ、この習性に囚われすぎると、少しずつ認知できる世界を狭くしていくことになるのではないか。

そうなれば、イノベーションが起きなくなる。

村社会のようなものだ。



一度「役に立たない」と判断すると、秘めた可能性になんか目もくれず、簡単に見捨てたり切り捨てたりする。

ではどうするか。



リフレーミング(reframing)

常識の枠組みを外し、新鮮な目で観ることが求められる。


まさにこの、リフレーミングして新たな意味を見出すことができるのが、人工知能や他の生命にはない、人間の力なのではないか




ここまでの話をさらに俯瞰し、メタ認知して考える。


意味があるとかないとか決めているのは、すべて人間だ

いい悪い、役に立つ立たない、意味があるない、どれも人間が決めているだけなのだ。

そして自分勝手に、意味のないもの、役に立たないものを排除しようとする。


老子は無用之用という言葉で表現している。

仏教では、因果をつなぐ縁を言及し、結果は後付けにすぎないと表現している。




環世界


目の前に見えるものは、自分にとって「意味あるもの」として知覚されない限り、その生物の環世界には存在していないのと同じ。


人間と他の動物や昆虫が、同じ空間に共存しているにも関わらず、全く違う環世界の中で生きていることになる。

人間同士ですら、一人一人が異なった情報環世界で生きている。


たとえば、ひとりひとりの日々の興味や関心が違うことで、ネットから受け取る情報はパーソナライズされて、全く違う情報環世界で生きることになる。


末っ子が幼稚園のころ、はじめて文字に興味を持ち、少しだけひらがなが読めるようになったとき、自転車の後部席に乗っている末っ子が興奮したように、「言葉をみつけた」「あれはなんて書いてるの」って質問攻めにあった。

末っ子にとって文字を理解するまでは、目の前にある看板や標識や文字は、単なる景色の一部として認識していたんだなということに気づかされた瞬間だ。



この自分の環世界を広げていくには、身体感覚が必要となる。


1,まず、身体を使って世界に働きかける。

2,すると、なんらかの反応が戻ってくる。

3,その反応を感覚器(五感)によって受け取り、世界がどう見えるかを理解していく。


身体感覚と外の世界のギャップを埋めていくこと。

そのことで環世界が広がっていく。


小さな問いからはじまり、身体的アプローチを通じて理解していく。

理解して分かるということは、「分ける」ということ。

どこまで分かってて、どこから分かっていないかに気づくことになる。

すると、さらなる問いに気づいていく。・・・

この繰り返しの中で、イノベーションや芸術が生まれるのだ。



身体感覚と外の世界のギャップを埋めようとする活動の中に、人間の創造力が秘めていることになる。

この創造力を肯定され活かしていくために、「アプリシエーション」という評価が大事になっていくのだ。


アプリシエーションとは、あるものをいい悪いと判断するのではなく、純粋にアート作品を鑑賞する感覚で深く感じ、その存在自体に感謝すること。


 

AIが進化してく今だからこそ、人間は身体感覚を磨き、社会に働きかけていくことが問われているように思う。

対話で積み上げてきた西洋哲学と、身体感覚で積み上げてきた東洋哲学が、AIの発展によって、ひとつになるような感覚だ。



つづく


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