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執筆者の写真yamashina shigeru

2つのエピソード

ところで今、行動科学研究所のエンパワーメントベーシックコースに参加させてもらっている。

第3回目の講義の中で向き合った問いがある。


自分が大きく変わったな、成長したなと思う人生の出来事を思い起こしてみよう。 そのときどんな(それまでは眠っていた)力を呼び覚ましただろうか。

これまでの人生を振り返ると、自分が大きく変わった出来事は、


・小学4年生のときに担任の先生から「ホッケーをやってみないか」と誘われた時。(一歩踏み出す力

 

・大学のとき、親友から「なぜお前は自分の知っていることを伝えないのか」と本気で怒られた時。(引き受ける力


・実家の仕事を手伝いにあたって家族会議で父が「お客様が一人でもいる限り続ける」と語った時。(引き受ける力・一歩踏み出す力

 

それ以外にも、まだまだある。

その中で、今回紹介したいなと思う2つのエピソード。



①あなたも全く同じです。


昨年だったと思う。

妻とぼくの母について語っていた。

自分の人生のテーマは「家族との向き合い方」だと思っている。

親との関係、兄弟の関係、、、。いろいろある中で、ぼくの母の話になった。


母のことは、心から尊敬しているが、どうしても気が合わないなと、子どもの頃から思っていた。

母は、すごくクリエイティブな面をもっていて、人と違う視点と魂の自由さを持っている。

その違う視点で、料理や人と関わり、そこから生まれる驚きや閃きのようなことに、生きる喜びを感じているのかもしれない。


例えば、初めて行く場所で、通行人や、観光客や、その場所で働いている人に、一見「え!」って思うような質問を突然したり、誰も予想しないような返答をしたりする。

ぼくはその姿を見るたびに、すごく恥ずかしい気持ちになる。

その場から消えてなくなりたい気分。

ただ、母の笑顔と言葉で、しれっと人の懐に飛び込んで、予期しない体験を作ることに関しては、たまに羨ましいという気持ちもある。

また、何か問題が生じた時に、それを解決するための交渉だったり、気まずい場面で、ぐわっと空気を変える力もあり、助けられた場面も知っている。


ただ、相対的に、恥ずかしいからやめてくれという感情のほうが断然大きい。

 

この母に対する嫌悪感のような感情をうまくコントロールできないということ。

それが母との関係で一番ネックになっていること。

これを妻に語った。


すると、全く予想もしなかった返事が妻から帰ってきたのである。


「あなた、もしかしたら気づいてないかもしれないから、言うけど…」

「今、あなたが語った恥ずかしと思う行動って、いつも、あなたが私たち家族の前でやっている行動と同じだよ」

「私は何度も、恥ずかしい思いをさせられているけど」


えーーーー!

これは冗談かと思えるくらい、人生最大の気づきだった。

自分の中で一番嫌悪感を感じていた行動を、自分もしていたとは!


もう一歩踏み込んで自分の気持ちと向き合ってみると、母の行動に嫌悪感を感じていながらも、正直、自分にないものを持っていると憧れを抱いていたことに気づいた。


この気づきから、自分の選択が変わったかと言えば、自覚できるような変化はまだないように思う。

しかし、気づいたことで、明らかに、自己理解は深まった。

僕の中では、世紀の発見に相当する。

 

 

②4人目とど真ん中名刺


14年近く、富山と大阪の二拠点生活をしている。

平日は富山で働き、週末は家族のいる大阪で過ごす。


今年小学2年生になる末っ子が生まれた時のエピソードだが、出産前に、妻が手首を骨折したのだ。

末っ子は、生まれてすぐに心臓に疾患が発見され、集中治療室で入院することになった。


手首が骨折して普段の生活もままならない妻、集中治療室で入院が続く4人目の子ども。

ずっと妻に3人の子育てを任せきりだった状態で、さらにこの状況。


どう考えても、実家である富山の仕事からある程度距離を置いて、二拠点生活にピリオドをつけ、大阪で家族と共に暮らすことを選択しなければ、どうにもならない。

選択の余地はない。

もし、この状況を理解しつつ、二拠点生活を続けるなど、父親失格だろう。

 

末っ子が入院している病院からの帰り道だったと思う。

妻が少しぼくの前を歩いていて、生まれたばかりの末っ子のことを考えていた。

 


そのとき、ぼくの頭に浮かんできた選択は、全く驚くべきことだった。


大阪で暮らすという選択は、本当に末っ子のためになるのだろうか

もし、志半ばで富山の仕事を辞め、大阪で暮らすことになったとして、将来、胸を張ってその選択を末っ子に語れるだろうか。


常識的に考えると、大阪で過ごす選択をしてくれてありがとうと、妻と子どもたちから喜んでくれることもわかっている。

富山のほうも、事情は察してくれるはずなので、どこにも問題はない。

 

しかし、自分はどうだろうか。

覚悟を決めたはずの仕事を途中で放棄したことを、末っ子のせいにしてしまうのではないか。

子どもたちに胸を張って生きることができる選択は、むしろ、4人目の子どもが生まれたからこそ、自分が信じた心からやりたいと思う仕事を続けることなのではないか。


そんな思考が、ばーっと頭の中に流れ込んできたのだ。

どこからともなく、流れてきた感じ。



そして一つの決断をする。


実は子どもが生まれる前に、ど真ん中名刺のイベントを開催してほしいという依頼を頂いてた。

でも、この状況になってしまい、開催できるか分からない状態だったので返答を保留していた。


そこで、もし、ど真ん中名刺のイベントやりましょうと返信をして、イベントを立ち上げた時に、参加者が集まるようなら、富山に戻ろう。

集まらないのなら、それだけのことだと思い、大阪に留まろうと。


イベントは、すぐに満席となった。



これをキッカケに、また富山と大阪の二拠点生活に戻るのだが、僕の中の「ど真ん中名刺」の考え方が変わったのだ。


ど真ん中名刺とは、自分の過去現在未来を繋ぎ、ひとつの物語として矛盾なく語れるように人生を編集していく。その中で、見えてくる自分のど真ん中を表現する名刺をつくっていく。


そのため、個人差はすごく大きいのだが、何度も何度も、何時間も対話をしながら作っていくことになる。


この名刺づくりを始めた理由は、実家の印刷会社が倒産の危機にあったからだ。

町の小さな印刷屋さんは、衰退産業のトップを走っているようなもので、時代の流れに逆行するような仕事だ。

それでも、この仕事を続けると判断した父。

その父の言葉に無条件に心が突き動かされ、手伝い始めたぼく。


何ができるだろうか。


そのひとつの答えが、ど真ん中名刺だった。

会社はいつまで存続できるか分からない。

けれど、名刺を作る中で、忘れられないような関係をお客様と結ぶことができれば、その人の中で、ヤマシナ印刷が生き残りつづけるのではないだろうか。

そんな名刺をつくろうと。


このマインドが変わっていったのだ。


ど真ん中名刺は、自分の才能を一番活かすことができ、もし自分に上司がいたとして、ど真ん中名刺は作らなくてもいいと指示されても、無視して作り続ける仕事だと。


世の中に新しい価値を生み出したい。

自分の中の強い願望として、ど真ん中名刺に向き合えるようになった。

実際は、この心の変化はゆっくりと進んだのだが、すごく大きな変化となった。

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