第30講 謙遜と卑屈
真に謙遜というのは、その人が内に確固たるものを以ていなくてはできないこと。 言い換えれば、人は自ら信ずるところがあってこそ、初めて真に謙遜にもなり得る。
まずこの結論から始まる。
つまり、何よりもまず自己というものを確立していることが大切であり、それができていなければ謙遜ではなく卑屈になってしまう。
分かりやすい表現をするのであれば、自分が人からどう見られるだろうか、またはどう見てほしいだろうかという視点に意識が囚われている状態では、真の謙遜は生まれない。
どこかに功利打算があるのであれば、それは卑屈になるのだと。
そして、謙遜は、目上の人に対してだけではなく、同輩に対して、さらには、目下の人に対しても必要な徳だと書かれてある。
そして、さらにもう一歩深めた考えが示されている。
謙遜という徳は、元来対人的なところにその本質はなく、その人がどれほど真理や道というものと、取り組んでいるか否かによるものだ。
この最後の思考が、一番心に刻まれた。
ダイバーシティな社会になるには、ディスカッション能力や対話力も必要ではあるが、むしろ、その逆にも捉えがちな「謙遜」の心があること。
ここが大切になってきそうだ。
そして、また「道に志す」ことへの厳しさを知る。
「謙虚」とは(辞典)
宗教的な謙遜は単に「へりくだる」ことだけではなしに、そこに絶対者への絶対信頼があって意義が存立している。
キリスト教では謙遜とは「自分の罪を自覚し、高ぶった思いを捨て、低きにつく心の持ちかたをいう」
仏教の浄土教でも、二種深信ということを中国の善導が教え、法然・親鸞らが継承している。それは①機(素質・能力)の深信。自己の能力・素質は愚劣であって、阿弥陀仏の誓願力でなければ出離の縁がないと深く信ずること。②法の深信。愚劣の素質・能力を抱擁するものは、ただ弥陀一仏のみであると、その威神力を深く信ずること、の二種の深い信仰であって、この二種の信仰が決定しないと往生は難しいというのである(中村元『仏教語大辞典』)。
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