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更新日:2019年9月18日



誠(修身教授録より) 真実の道というものは、 「自分がこれを興そう」 「自分がこれを開くんだ」 というような考えでは、真に開けるようなものではないようです。 その点は、実に大事な問題だと思うのです。 真実の道は、一体いかにして興るものでしょうか。

それには、 「自分が道をひらくのだ」 というような一切の野心や計らいが消え去って

このわが身わが心の一切を 現在の自分が当面している「つとめ」に向かって 捧げ切る「誠」によってのみ開かれるのであります。 それだけにこの誠の境地には容易に至りがたく 実に至難なことだと思うのです。 誠には 「もうこれでよい」 ということはないからです。 「もうこれくらならよかろう」 と腰を下ろしたんでは、真の誠ではないからです。 真の誠とは その時その時の自己の「精一杯」を尽くしながら しかも常にその足らざることを歎くものでなくてはならぬからです。 その意味からは誠は「綱渡り」に喩えることもできましょう。 綱渡りというものは決して途中でとどまることのできないものであります。 つまり向こう側にたどりつくまではどうしても常に進まねばならぬものです。 綱渡りで向こう側へたどりついて 「やれやれ」 とホッとするのは、これを現実の人生で申したなら、死ぬ時です。 綱渡りが喝采を受けるのは、なるほど途中でも喝采は受けましょうが しかし真の喝采となると どうしても向こう側へ着いてからでないと真の喝采とは言えないでしょう。 同様に、一人の人間の真価が本当に認められるのもやはり亡くなってからのことでしょう。 しかし そのように喝采せられる内容がどこにあるかといえば やはり綱を渡る間の渡り方にあるわけで 決して向こうへ着いてからの態度や状態ではないはずです。 同様に 人間の真価が本当に認められるのは死後にあるのではなくて 実に生前の生活そのものにあることを忘れてはならぬのです。 結局一口で申せば その人の一生がいかほど誠によって貫かれたか否かの問題でしょう。

こう書かれてある。

誠とは、自分が道を開くんだといった一切の野心や計らいを超えたところにあるという。

ただ、ただ、その時の精一杯を生きることであると。

ここでひとつ疑問が生まれる。

では「志」を持つということと、誠であるということは、一致するのか?

自分が何かしらの道を開くといった志を抱くこと。

それすらも、私心や計らいであり、それすらも超えるところに誠の生き方があるとすれば、

いったい、志を立てるとは、いかなることか?

そこには「礎」という世界がある。

この歩み一歩一歩が、こらから同じ道を歩もうとする同志にとっての

礎となる覚悟。

そこに、自分というものが消え、希望が生まれる。

ど真ん中を生きる、その先にある世界の扉。

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