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轍を踏む

更新日:2019年9月18日


修身を学ぶ会富山の今回のテーマは 「一道をひらく」でした。 一道をひらくということは、それによって自分自身が救われると共に、さらに後に来る同じ道をたどる人々に対して、その行く手を照らすという意味がなければならない。 とあります。

自らが捨石となる覚悟で道を歩む。

美談といえばそれまでだが、ただ一道をひらく生き方ができれば、成功も失敗も超えた貫く生き方がそこにある気がしていた。

が、しかし。孔子はこんな言葉を残している。   子曰わく、   人能く道を弘む。   道、人を弘むに非ず。 人が道を作るのであって、道が人を成長させるわけではない。 すべての人がそれぞれの道を作らねばならない、と。 これは、とても衝撃的な章句だ。

自分の中の価値観が崩れるような言葉だ。

にもかかわらず、さわやかな風が全身を包んでくれる言葉である。 ちょうど勉強会で上野さんが、このことを登山にたとえてくれた。 先頭は僅かな草が押しつぶされた形跡を見逃さず、道を選び、前に進む。自分の背中をみて登ってくる2番手、3番手に対する全責任を負いながら。 2番手、3番手は、先頭がいるおかげで、あたかも、自分が道を作り、登頂できたという錯覚と感動を覚えることは容易い。でもそれは本物ではない。疑似である。 先頭は、2番手、3番手の人が「もし自分が先頭だったらどうするか?」と常に考えながら思いやりをもった行動をしてほしいと願う。 その願いが、2番手、3番手に通じたとき、命に関わる事故から逃れることができる。 世の中を見渡すと、この擬似を提供することでビジネスとして成り立たせているものが多数ある。 それは別段悪くはないが、孔子が言うように、「道、人を弘むるに非ず」なのだろう。 では、一道をひらくとは? ここから改めて「誠」ということに通じる。

轍を踏む。 「轍」は「わだち」のことで、通り過ぎた車輪の跡の意。 転倒した前の車のわだちをたどって、同じように転倒することから。

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