朝活大学素読会
堯舜天下を帥いるに仁を以てして、民之に從う。
桀紂天下を帥いるに暴を以てして、民之に從う。
其の令する所其の好む所に反すれば、民從わず。
是の故に君子は、諸を己に有して后、諸を人に求め、
諸を己に無くして后、諸を人に非とす。
身に藏する所恕ならずして、能く諸を人に喩す者は、未だ之れ有らざるなり。
故に國を治むるには、其の家を齊うるに在り。
君子が仁徳をもって天下を率いれば、民は喜んで従った。
君子が暴力をもって天下を率いれば、民に暴力がはびこるようになった。
このように、君子は、自ら正しい道を実践した上で、人にその道を進める。
また、君子は、自分の過ちを正した上で、人の誤りを改めさせる。
つまり、自分に「恕」の心を持たずして、人を諭し導くことのできる人はいない。
故に、国を治めようとするなら、まず自分の家をよくととのえるところからはじめないといけない。
歴史的な経験値を踏まえて上で、論理的に説明してくれている。
ぼくも大好きな「恕」を紹介している部分だ。
「恕」がでてくる有名な論語の章句がある。
このブログでも、何度も紹介させていただいる。
子貢問いて曰わく
「一言にして以って終身これを行うべき者ありや」
子曰わく
「それ恕か己の欲せざる所人に施すことなかれ」
孔子の弟子が、「一言で生涯大切に行うことを言うなら、どう言えるか?」
と質問する。
それに対して孔子は、
「それは恕だ。つまり、自分がしてほしくないことを他人にしないということ」
「恕」とは、自分と他人をひとつとして考えよということ。
自分がしてほしくないことは他人にしてはいけない、ということは幼稚園でも習うようなことだ。
しかし、この姿勢を生涯、いかなる状況になろうともできるだろうか。
それを孔子が説いている。
学校で共に学ぶライバルでもある友に対して。
組織の中で。
お客様に対して。
両親に対して。
兄弟に対して。
自分が病気の時に。
年老いた時に。
常に「恕」を忘れずに生きることができるか。
シンプルな内容にも関わらず、すごく厳しい問いかけなのだ。
それにしても、なぜ「恕」という文字を見ると、少し恐ろしさを感じるのだろうか。
朝活大学素読会では、そのことについて少し盛り上がった。
もちろん、「怒」という文字に似ているということもある。
しかし、それだけではないように思う。
これはモヤモヤとして、すぐに答えを出さずに、熟成させたい問いだ。
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