親子論語塾
今回は、ひとりで参加してきました。
阪急西院駅から、いつもはバスで大徳寺龍光院までいくのですが、せっかくなのでランで行きました。

曾子曰く
君子は文を以て友を会し
友を以て仁を輔く
何かひとつのことを学ぼうと思い、ともに学ぶ仲間を集める。
そんな仲間と学ぶことは、仁を育てることになる。
この章句は、孔子が生きた時代を想像すると、すごく趣深い世界が広がる。
師のもとで学ぼうと集った仲間。
20歳から60歳ぐらいの仲間が集まっているとするなら、年齢差は40年。
実際、孔子と曾子は40年以上年齢が離れている。
当時は、教科書もノートもえんぴつもない。
目の前で師が教えてくれることを、ひたすら真剣に聴く。
これが学ぶ基本姿勢となる。
しかも年齢もさることながら、知識や経験の差もある。
最近入塾した弟子と10年以上ともに学んでいる弟子が一堂に会して学ぶのだ。
師もそれをわきまえ、誰にでもわかるように工夫して語ったことだろう。
これは、師と弟子の情熱の真剣勝負の場であったに違いない。
講義が終わり、師が退出される。
知識不足で講義の内容が理解できなかった弟子がいるだろう。
どうすべきか。
論語の中にもあるように、「わからないことをわからないままにせずに、すぐに調べて解決していく」という姿勢を孔子は重んじている。
論語の中には「切に問う」という言葉がある。
だからこそ、知識不足の生徒は、先生の代わりに先輩に質問することになる。
もし自分が先輩だとして、ちょうど友人と議論の途中であったり、自分の宿題に取り組んでいたとする。
後輩の質問に対して、どんな態度をとるだろうか。
・すぐに後輩の質問に対応する。
・少し待ってね、あとで教えると答える。
・今は難しいと、一度断る。
などなど。
しかしどちらにせよ、最終的には後輩のためにわからないところを教えることになる。
自分の命の時間を後輩のために使うのだ。
その関係性の中で「仁」が育つ。
年齢も知識量も違う仲間の中で、ひとつの学びを探求する。
そこには、今のような情報を保存しておくような便利なものがない。
だとしたとき、そこにある真剣な学びの時間が、どれほど貴重で大切なことだろう。
今回、安岡先生自身の生き方について、大きなヒントをいただいた。
これは、毎回思うことなのだけど、安岡先生の立ち姿が常に大地に根を張っているように感じ、状態がぶれないのだ。
さらに、視線は常にまっすく前を見据えており、微笑みを絶やさず、真剣さが伝わってくる。
この姿にいつも感銘を受けていた。
その理由のヒントを2つ教えていただいた。
一つ目は、安岡先生の会社名は、まさにこの章句を参考にしていること。
曾子曰く
君子は文を以て友を会し
友を以て仁を輔く
株式会社 会輔堂
だそうだ。
「会輔」という言葉も、祖父から受け継いでいるという。
二つ目は、孔子が生涯貫いた生き方。
これも孔子と曾子で交わされる言葉に残っている。
忠恕。
忠は、まごころ。偽りの心がないこと。自分に嘘をつかないこと。
恕は、自分と他者を分けない究極の仁の状態。
孔子は、生涯かけて「忠恕」を大切にされた。
安岡先生曰く
「今日は0歳から中学生の子供たちへ講義をしています」
「たとえば、そのあとに、大人のための論語塾、経営者のための論語塾の講義があったとします」
「もし私が、子どもたちと経営者の前では、違う内容、違う熱量で語っているとしたら、どう思いますか」
「いい気分じゃないと思います」
「子どもたちだろうが、大人だろうが、経営者だろうが、同じ内容で同じ情熱で語ることを心掛けている」
「これは、孔子先生の生き方にもつながる」
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