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親子論語塾にいってきました。

とは言っても、夫婦で!


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子曰く、

学んで時にこれを習う。

また説(よろこ)ばしからずや。

朋有り遠方より来たる。

また楽しからずや。

人知らずして慍(いきど)おらず。

また君子ならずや。


論語の最初の章句だ。

一番有名で大切な章句だと言ってもいい。


学ぶだけではなく、学んだことを何度も繰り返し復習することで、「そういうことか!」と腹落ちして、気づきに出会う瞬間がある。

それはなんと喜ばしいことか。


単に仲のいい友達ということではなく、同じ師を持ち、同じ志を抱く友(朋)が、遠方から訪ねてきてくれる。

これはなんと楽しいことか。


他人に評価されたいからするのではなく、自分が好きだからする。

他人の評価は関係ない。

自分のことを他人が理解してくれないことに不満を抱くのではなく、自分が他人のことを理解できていないことを慮る。

それは君子の道だ。



習(対話、復習を通して気づくこと)

朋(同じ志を抱く仲間の存在)

慍(他者評価に左右されない心)


この3つが大切で、さらにその土台に「」がある。

この構造を理解した上で、論語を読み進めると、すごくわかりやすくなる。



ここで安岡先生が子どもたちに質問されました。


では、仁とは何ですか。



子どもたちは、みんな頭をかかえ、何か言いたそうにしながらも言葉にできない様子だった。

すると先生は、


「みんな賢いですね」

「なかなか言葉にできないのが仁です」

「だから、みなさん正解です」


論語には、仁とはこういうものだと説明する箇所がいくつかある。

しかしそれは、弟子ひとりひとりに合わせた答えであり、唯一の答えがあるわけではない。


たとえばこんな章句がある。


樊遅(はんち)、仁を問う。

子曰く、人を愛す。


仁とは人を愛することだ、と。



ふと思い出したのが、14歳の挑戦で中学生が会社に体験にきたとき、初日に池田晶子著の「14歳の君たちへ」にある「友愛」をテーマに哲学対話を行った。


その文章の中に、ちょうど「愛」について語られている箇所があった。



愛と好きは違うんだ。愛は感情じゃない。愛は、好き嫌いを超えたもの、それがそこに存在するということを認めるということだ。受け容れるということだ。

「受け入れる」ではなく「受け容れる」という漢字を使っているのも意味があるのだろう。

自分の中にスペースをつくる、スペースを広げるというニュアンスが伝わる。


この池田晶子さんの言葉を借りるなら、仁とは、相手の存在を認めること、自分の心のスペースを広げることだと言える。


そう考えると、仁を単に「思いやり」のことだと説明するには、どうしても説明不足だと思うし、ひとりひとりの受け止め方があるように思う。



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