呆気
- yamashina shigeru
- 5月4日
- 読了時間: 2分
A NEW EARTH
二巡目 第21週 振り返り
先日、横尾忠則現代美術館に妻と行ってきました。
はじまりから、呆気にとられる作品がつづきます。
正直深い意味はわかりません。
それでも、言葉を失います。
なぜそこにそれを描くのか。
キャンパスになぜ木片を打ち込んでいるのか。
ここでどうして写真の切り抜きを足すのか。
いろいろ超えています。

不思議なもんで、意味がなくても、その違和感だけがずどんと伝わる。
そして人間は不思議なもので、その違和感を解明したくなり、結局思考の世界に引き戻されるのだ。
しかし、呆気にとられている時間から思考に戻されるまでのギャップ。
このギャップが心地いい。
さて、上記の絵。
禅の伝説的な人物、寒山と拾得を描いている。
本来は、寒山は巻物を、拾得は箒を手にしている。
巻物=真理
箒=実践
を表現しているとされている。
この二つが合わさって、日常の中にある本物の生きた叡智を表現している。
横尾氏は、この「巻物」と「箒」をとんでもないものに置き換えているわけだ。
巻物=トイレットペーパー
箒=サイクロン掃除機
に。
真理とは、お尻を拭いて水に流すもの程度に考え、執着を捨てること。
実践とは、自力でも他力(電力)でも同じであり、寛容さが必要だということ。
絵の中に「ego is dead」の言葉がちりばめられている。
人生を楽しむ極意が表現されているように思える。
さて。
弓道昇段審査二日目になった。
弓道場で先生からこんな言葉をいただいた。
「さっき、つがいの蝶が飛んでいたね。」
弓道場は、外と内がつながっている空間である。風、昆虫、太陽と共にある。
「ミツバチもそろそろ元気に働ているのかな」
と。
弓道場で、蝶が飛ぶ姿が見えている。
弟子(ぼく)の日常、道場の外の景色に気を配る。
ぼくはまだまだ的以外は見えていない。
横尾さんの表現する世界は程遠い。
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