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本当に成長しているのか。

A NEW EARTH

二巡目 第24週 振り返り


意識




50歳を過ぎて思うこと。

自分という「本質」は、ひとつも成長していないのではないか。


本質を覆っている薄皮は、環境や人との出会いで大きく変わった経験がある。

薄皮が、硬くなったり柔らかくなったり、色がついたり無色になったり、甘くなったり辛くなったり。

はたまた、薄皮は幾重にも重なりあっているような状態かもしれない。


薄皮の変化は、いろいろ思い出すことがきる。

もっとも古い記憶は、小学生低学年のころ、町内の獅子舞が復活した時期かもしれない。


本番までの約1か月間、夕方から獅子舞の練習を行う。

町内の子供たちが集まり、大勢の大人たちに教えてもらう。

 

ぼくの幼少のころの記憶もそこからしかない。

たぶん、それまでは、友達もあまりいなく、ずっと家にいる子だったのだろう。

父が僕宛てに書いた作文に、「内向的な息子が心配だったけど、獅子舞が始まって変化したことがうれしい」と書かれてある。

獅子舞の練習をきかっけに、町内のこどもたちと毎日遊ぶようになる。


人生最大と言っていい勘違いもこの時に起こしている。

「長男」という言葉だ。


「長男なんだから」


そんな言葉を、何度か母から聞いた記憶がある。

中学校に上がるぐらいまで「長男=町男=町を守るリーダー」のことだと本気で勘違いしていた。

その勘違いもあって、町の小さい子供たちを引っ張っていかなければならないと勝手に思い込んでいた。


その思い込みもあり、それまで内向的だった人間が、子どもたちを引き連れて冒険に出かけるガキ大将のような存在になる。



それに似たような大きな変化は、人生の中で何度もあった。

大きな変化があるたびに、きっとぼくの近くにいた友人からすると、「すごく変わった」「成長した」と評価されるのだろう。



しかし、自分だけが知っている。

どれほど外的に大きく変化したと言われても、本質が変化したかと問われれば、変わっていない。


全く変化していないかと言われると、きっと驚くような遅さで成長しているのだろう。

一生涯をかけて、1mm成長できるかどうか。

そんなもんなんじゃないか。



人とはシャボン玉のような存在


最近読んだ「ゆるストイック」の著者、佐藤さんのyoutubeで、人の存在はシャボン玉に似ているのかもしれないと、話されていた。


人の実体は、シャボン玉のように内と外を分けている薄い膜のようなもの。

膜を割って中身を調べても、そこには空気があるだけ。


シャボン玉が空を飛び、重力に負けて落下しつつ、表面張力のバランスが崩れ、最後には割れる。

その様を子供のように無邪気に楽しんでいる意識の存在もあるのかもしれない。


これが自分の本質だと思っていることのほとんどは、環境が生み出した結果であり、どこまでは自由意志なのか、そもそも自由意志などないのでないかとさえ思う。


それはさておき。


自分の本質は、50年かけても思うほど成長していないと自覚できているのだが、人と人とのあいだに生まれる創造や気づきは、大きく成長した。


成長しているのは、、本質のほうではなく、人との関係性から生まれる気づきの質なのではないか。


人は、肉体を携え、感情をもち、エゴをもち、生きる。

一見不要なものとも言える重荷を背負いながら生きている。


それは、自分の本質にとっては、重要ではないかもしれないが、重荷があるからこそ、誰かと助け合い、対話し、つながりあう。

本質だけが成長するよりも、人と人との間、スペースにこそ、大きな意味があるのかもしれない。


そして、シャボン玉を楽しんでいる意識とのつながりと。


5月24日は、石動天神獅子舞祭りの日











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