今日は月に一度の親子論語塾の日
はじめの書は「隅」。
隅がある有名は論語の章句があります。
子曰わく、 憤せずんば啓せず。 非せずんば発せず。 一隅を挙ぐるに、三隅を以もって反せずんば、 則ち復(ふたたび)せざるなり。
意味は
孔子先生がおっしゃった。
私は、自ら考えて問題を解決しようと、知りたい気持ちが溢れ出そうとならないと、教えない。
言いたいことが溢れてきて、言葉にできないもどがしい状態にならないと私は導かない。
ひとつのことを教えたら、残りの三つのことは自分で考えて推測できるようにならないと、二度と私は教えない。
2500年前の歴史的背景も関係はしているのだろうが、これほどまでに、学びを求めてくる人以外は教えないと言われている。
特に最後の言葉は、「二度と教えない」だ。
まずは、自ら問題に挑み考えること。
その力があってはじめて、先生は振り向いてくれる。
そういった状態になってはじめて、自分の身近なところに先生がいることに気づくのかもしれない。
この章句から「啓発」という熟語が生まれた。
もうひとつ。
「人生は習慣の織物である」
ある詩人の言葉を教えてもらった。
教え有りて類なし
という章句がある。
人は生まれた時点では差はないが、教えによって差がついてくる。
そして、教えを如何に習慣にしていくか。
この実践が大事なんだと。
末っ子が素読で選んだ章句はこれ。
君子は上達し
小人は下達す
君子はどんどん上達するが、小人はどんどん下達していく。
現状維持はない。
という章句だ。
これも、人間は習慣の生き物だからだろう。
どんな習慣、どんな考え方で生きているのか。
習慣が良ければ、日々上達するだろうし、習慣がよくなければ、日々下達していく。
社会から与えられる教育だったり価値基準は、間違っているわけではないだろう。
しかし、自分で考えているか。
考えるとは、一体どういうことか。
考えて、考えて、なんとかその問題を解決したくてたならないという情熱はあるか。
どんどん心の奥から沸き起こる想いで、言葉が追いつかない。
そんな状態になったことはあるか。
ひとつの答えから、別の事例に当てはめたらどうだろうか、社会に当てはめたらどうだろうか、歴史的には同様の事例があるのだろうか、、と発想を広げることができているだろうか。
そこまで考えて、はじめて先生の存在が目の前に現れる。
そして学ぶだけではなく、習慣にしていくことの大切さ。
短い時間で多くのことを教えてもらった。
ワンピースのナミちゃんと涙。
あのとき、ルフィーがなぜナミちゃんの助けてほしいという言葉を待ったのか。
なにか、ここに繋がるなと思えた。
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