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土俵

存在の声に耳を澄ます

小林範之 著 読了


毎朝5時からの音読会の仲間から贈っていただいた一冊。

本書は、「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念について、哲学、心理学、芸術など、さまざまな知見を総動員しながら探究した本だった。




ネガティブ・ケイパビリティは一般的に、「答えの出ない不確実な状態に耐える力」と説明されることが多い。

しかし本書は、そこからさらに一歩踏み込んでいたように感じる。


忘れないうちに、あえて本書の言葉を借りるのではなく、自分の内側から立ち上がってきた言葉として残しておきたい。



① いのちの声に聴く


私はこれまで、ネガティブ・ケイパビリティとは、

「脳が不快なモヤモヤを解消しようとして、すぐに答えを出そうとする衝動を保留する力」

だと理解していた。


人は答えを見つけると安心する。

たとえそれが本質から少しずれていても、「理解した」という感覚によって気持ちは楽になる。


しかし、その安心と引き換えに、本来は言葉では表現しきれない核心を見失ってしまうこともある。

一般に言われる「不確実さに耐える力」とは、そのことを指しているのだろう。


だが、本書が伝えようとしているネガティブ・ケイパビリティは、さらに深い。

それは、

いのちの声に聴くこと

なのではないかと思った。


自分の身体を通して感じるものだけでなく、その外側からやってくる声に耳を傾ける。

それは身体の深い内側からの声かもしれないし、外の世界から届く声かもしれない。

その声を、自分の身体に沁み込ませる。

五感や既存の理解を超えて訪れる何かを受け入れ、自らの一部としていく力。

それがネガティブ・ケイパビリティなのだろう。


そう解釈すると、芸術家にこの力が強いと言われる理由も理解できる。

もっとも、それは決して穏やかなことばかりではない。

自分を超える大きなものに触れることは、時として恐れを伴う。

それでもなお、その声を承ろうとする。


そのためには、大きな力が必要だ。

生きる力が。



② 価値観を「軸」ではなく「領域」として捉える


朝の音読会で、

「相撲が神事となり得るのは、土俵という場があるからだ」

という話になった。


「場」の大切さ。

ネガティブ・ケイパビリティを考えていくと、自然と「場」というテーマに行き着く。


なぜなら、

「正しいか、正しくないか」

「善か、悪か」

という二項対立だけで世界を見ないのが、ネガティブ・ケイパビリティだからだ。


ひとつの絶対的な軸によって判断するのではなく、「問われている存在」としてそこに立つ。

そうすると、価値観は一本の軸ではなく、重なり合う領域として見えてくる。


ソース原理の言葉を借りるなら、ソースが生み出すクリエイティブ・フィールドに近い感覚だ。

いのちの声を聴き、リスクを引き受けながら一歩を踏み出し、自らがソースとなる。

そしてソースの重要な役割のひとつは、クリエイティブ・フィールドの境界を守ることにある。


また、

「Aを実現するためにBを行い、Bを実現するためにCを行う」

という因果的な世界と、

「Cが実現すれば自然とBになり、やがてAとなる」

という生成的な世界が、同時に成立しているような感覚だ。


大切なのは、因果的世界または生成的世界のどちらか一方だけが正しいのではないということ。

両方が共に成立する余白やスペースがあること。

それこそが「場」を大切にする生き方なのかもしれない。



③ 場に心地よさをもたらす力


いのちの声に耳を澄ませる。

ソースとして生きる。

そして場を大切にする。


そうした在り方をしている人には、不思議と周囲を和ませる力があるように思う。

その人がいるだけで、場に心地よさが生まれる。

なぜなのだろう。


それは、その人が

ジャッジせず

圧力をかけず

権威を振りかざさず


その代わりに、

受け入れ

自由を与え

心のスペースを開いてくれる

存在だからではないだろうか。


ネガティブ・ケイパビリティとは、単に曖昧さに耐える力ではない。

人や世界を、自分の答えに閉じ込めない力。

そして、そのことによって周囲に安心と創造の余白を生み出す力なのだと思う。



ここまで考えていったとき、改めて「場」の重要性に気づいた。

この3つの柱が矛盾なく成立するのだろうかを考えた時だ。


「いのちの声に聴こうとする力」

と同時に、

「自分を守りたい」

「認められたい」

「こうありたい」

というエゴの力も存在する。

どちらかを否定するのではなく、両方を身体の中に同居させる。


もしかすると芸術とは、同居させることで生まれる葛藤や怒りにも似たエネルギーから生まれるものなのかもしれない。

完全に調和し切った世界だけでは、新しい表現は生まれない。


「場」の大切さとは、いのちの声も、エゴの声も、ともに存在できる領域が必要だから。

ネガティブ・ケイパビリティとは、その場を支える力とも言えるのかもしれない。


ここまでくると、まさに相撲の土俵とはそういった領域だと想像できる。

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