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情実

執筆者の写真: yamashina shigeruyamashina shigeru

今朝の朝活大学素読会。


情なき者は、そのことばをつくすことを得ず。 大いに民の志を畏れしむ。 これを本を知るという。 これを知の至りというなり。



この文にでてくる言葉「」について考えてみた。


伊與田さんの大学解説本には、

人間の本当の真は、情にある。 情は本能的なものだから、借り物ではなく本物だ。 情は実なり。 知識というものは表面的なもの。 だから情実によって接すれば、相手は嘘をつくことができなくなる。

そんな風に書かれてある。 まるで、今読んでいる「モモ(ミヒャエル・エンデ作)」と同じだ。



「情実」を辞典で調べると ① ありのままの事実。実際の事情。 ② いつわりのない気持。まごころ。 ③ 私情がからんでいて、公平な処置ができにくい事情や関係。 とある。


なぜかこの「③私情がからんでいて、公平な処置ができにくい事情や関係」の意味ばかり捉えているが、本当はすごくいい意味があることを知る。



経営者は、情に流されてはいけない。

そんな言葉をぼくも使う。

正直にいうと、好きになれない言葉だ。

この言葉を聞いても、自分の頭とこころがなかなか一致させられないなと思っていた。 でも、ほんとうは正しい言葉なんだろうから、それが納得できないのは、自分が未熟だからだなとずーっと思っていた。



でも、ここでは「情こそ実だ」という。


ぼくなりの解釈で先ほどの文を解説すると。


情なき者は、そのことばをつくすことを得ず。 自分の情とは違う判断基準で、いくら正義を語っても、最後には逆に自分の至らなさに気づいてしまい、何も言えなくなってしまうものだ。


大いに民の志を畏れしむ。 なぜか。 自分を省みていくと、自分の心にある「志」に気づく。 その志と自分の発言を比較したときに、気持ち悪い違和感に出逢うものだ。 自らの志を畏れ、これ以上発言できなくなるのだ。


これを本を知るという。 これを本を知るということだ。 人は良心という鏡を与えられて生まれてきた。


これを知の至りというなり。 その鏡が澄んでくれば、物を正しく映すことができる。 そうすれば、何が正しいことなのか判断できるようになる。 それが「知」である。

 

つまり、情に流されることはよくない。

しかし、情は真実である。

であれば、その情はなぜ生まれているのかを、内省する。

内省していけば、きっと自分の志に気づくはずだ。

または、生まれながらにある良心に気づくはずだ。

その志や良心は、なんと言っているのか、、心の声を聴く。

そうすれば、正しい判断ができる。


ここまで考えてみる。

これは情に流されるという表面的なことではなくなる。


朝活大学素読会は、各週木曜日7時から開催しています。

 
 
 

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