朝活大学素読会
子曰わく、訟を聽くこと吾猶人のごときなり。
必ずや訟無から使めんかと。
情無き者は、其の辭(ことば)を盡(つく)すを得ず。
大いに民の志を畏れしむ。
此を本を知ると謂う。
此を本を知ると謂う。
此を知の至りと謂うなり。
孔子先生がおっしゃった。
訴えを聞いて判決を下すことはできる。
しかし、本当の願いは、訴えのない世の中にすることだ。
真実のない嘘の訴えは結局どんなに言葉をつくしても、最後まで言い張ることはできないもの。
結局、自分を省みて、自らの志に反することを理解することになる。
つまりは、自分を正していく、本を知ること。
すると、生まれながらにある良心、良知に至る。
さあ、今回から
格物
致知
誠意
正心
修身
斉家
治国
平天下
の説明に入っていきます。
まずは格物致知のところですね。
「情無き者」と書き、まこと無き者、と読む。
伊與田さんの解説書にはこのようなことが記載されていた。
「情実」
人間の本当の真は情にある。
情は本能的なものであり、これは借り物ではなく本物だ。
情は実なり。
知識は表面的なものだ。
すごく大切なテーマだなと思って取り上げた。
まだ30代のころ、
「経営者は、情をとるべきか、理をとるべきか」
「常に迷いの中にあるのだろう」
そんなことを考えていた時期がある。
当時は、情に流されず理を貫くことがリーダとして正しい姿勢だと思っていた。
ここでいう「理」とは、普遍的な真理ということではなく、一般常識や資本主義社会の中にとっての「理」というニュアンスだ。
ただ、最近では、「理」は変化し移ろうことがあると理解している。
また、どの視点でみるかで「理」は正しかったり間違ったりしてしまう。
本物、本気、
本当の気持ちこそ「情」であり、真実なのではないかと、思っていた。
「情は本能的」とあるように、自らの意志とは関係なく、心の奥から沸き起こってくるものだ。
それは自分だけが知っている自分にとっての真実である。
それは間違いない。
その「情」に耳を傾けること。
それが「本」を知ることにつながり、「知」に至ることになる。
朝活大学素読会では、ここから「師」についての話に飛び火した。
なぜ、師という存在が必要なのか。
自分は本当に、自分の心の奥にある声に耳を傾けているだろうか。
この実践ほど難しいことはないのではないか。
人は、何かを比較し、分ける、分類するということで、物事を認知し、理解できる生き物だ。
それこそ、目には見えない、しかも、自分という実在と切っても切り離せない自分自身の心の奥の声を聞こうとするとき、どうすればいいのだろうか。
そんなときに、目の前に実在し、同じような道を歩もうとしてくれている存在がいるか、いないか。
つまり、師の存在が、すごく大きな影響になるのではないか。
師の存在が大切な理由のひとつになるはずだ。
次回は11月16日(木)7時から
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