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服装

修身を学ぶ会富山

第10講 肉体の護持


最近、妻から服装について注意されることが増えた。

なにも、立派な服やおしゃれな服を着てほしいということではない。

50歳を超え、それなりの経験と学びを重ねてきた中で、内なる人間的成長と服装の「周波数」を合わせてほしい、ということだと理解している。


服装以外にも、「魂を傷つけてはいけない」と注意される。

何かを我慢すること、本当に望んでいるものを諦めること。

そういった言動や選択をしたときに、指摘されるのだ。

それと同じ流れで、服装についても注意される。


何度となく言われてきたが、これまでの自分は、あまり関心を向けてこなかった。

ただ、今回この講を読み、改めて妻が伝えようとしていることの大切さに気づいた。


そして、僕自身が次のフェーズに移行する時期なのかもしれない、とも思えた。

とはいえ、「次のフェーズ」といっても、偉くなるということではない。年齢的な節目、という意味合いでもある。



今回の講で語られていたのは、「生涯をかけて向き合う大願を立てること」であった。

その願いを立ててはじめて、人は一人前の人間として歩み始める。

そして同時に、初めて自らの肉体を護ろうとする意識が生まれるという。


肉体があることで、エゴが増幅されることはある。

しかし同時に、肉体がなければ、発願を前にして道を歩むことはできない。

この肉体があるということの尊さを理解すること。

それもまた、極めて重要なことだと説かれていた。



僕は服を選ぶとき、一応のマイルールがある。

東北の大震災以降、いつ、いかなる状況でも、ポンと肩を叩かれた瞬間から約40km(フルマラソンの距離)を完走できる体力の維持と、それを可能にする服装で生活することを決めてきた。

それが、今の自分にできる最大のリスク管理であり、同時に最大のボランティアになると考えていたからだ。

だから服を選ぶときの基準は、「この服でフルマラソンを走れるかどうか」である。


しかし、50歳を超え、体力をコントロールし続けることの難しさを感じ始めている。

むしろ、自分が他者を助けることを前提とするだけでなく、他者に頼ることも視野に入れていく必要があるのだろう。

委ねていくこと。



数か月前、父は交通事故を起こした。

背骨の圧迫骨折も完治し、すでに日常生活に復帰している。


父は、少しばかり田舎には不釣り合いな、おしゃれな歩行器を使い、颯爽と散歩や買い物に出かけているらしい。

最初は人の目が気になっていたようだが、今では長い距離も歩けるようになってきた。


その、自分を変えていく姿勢に、尊敬の念を抱いている。



肉体は、ときにエゴを強める。

しかし同時に、大願をこの現実の中で歩むための、かけがえのない器でもある。

だからこそ、護るべきものなのだ。

護持とは、特別なことではなく、日々の習慣にあるのだろう。

そう考えていくと、妻から大切なメッセージをもらっていることに気づいた。

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