服装
- yamashina shigeru
- 12 時間前
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修身を学ぶ会富山
第10講 肉体の護持
最近、妻から服装について注意されることが増えた。
なにも、立派な服やおしゃれな服を着てほしいということではない。
50歳を超え、それなりの経験と学びを重ねてきた中で、内なる人間的成長と服装の「周波数」を合わせてほしい、ということだと理解している。
服装以外にも、「魂を傷つけてはいけない」と注意される。
何かを我慢すること、本当に望んでいるものを諦めること。
そういった言動や選択をしたときに、指摘されるのだ。
それと同じ流れで、服装についても注意される。
何度となく言われてきたが、これまでの自分は、あまり関心を向けてこなかった。
ただ、今回この講を読み、改めて妻が伝えようとしていることの大切さに気づいた。
そして、僕自身が次のフェーズに移行する時期なのかもしれない、とも思えた。
とはいえ、「次のフェーズ」といっても、偉くなるということではない。年齢的な節目、という意味合いでもある。
今回の講で語られていたのは、「生涯をかけて向き合う大願を立てること」であった。
その願いを立ててはじめて、人は一人前の人間として歩み始める。
そして同時に、初めて自らの肉体を護ろうとする意識が生まれるという。
肉体があることで、エゴが増幅されることはある。
しかし同時に、肉体がなければ、発願を前にして道を歩むことはできない。
この肉体があるということの尊さを理解すること。
それもまた、極めて重要なことだと説かれていた。
僕は服を選ぶとき、一応のマイルールがある。
東北の大震災以降、いつ、いかなる状況でも、ポンと肩を叩かれた瞬間から約40km(フルマラソンの距離)を完走できる体力の維持と、それを可能にする服装で生活することを決めてきた。
それが、今の自分にできる最大のリスク管理であり、同時に最大のボランティアになると考えていたからだ。
だから服を選ぶときの基準は、「この服でフルマラソンを走れるかどうか」である。
しかし、50歳を超え、体力をコントロールし続けることの難しさを感じ始めている。
むしろ、自分が他者を助けることを前提とするだけでなく、他者に頼ることも視野に入れていく必要があるのだろう。
委ねていくこと。
数か月前、父は交通事故を起こした。
背骨の圧迫骨折も完治し、すでに日常生活に復帰している。
父は、少しばかり田舎には不釣り合いな、おしゃれな歩行器を使い、颯爽と散歩や買い物に出かけているらしい。
最初は人の目が気になっていたようだが、今では長い距離も歩けるようになってきた。
その、自分を変えていく姿勢に、尊敬の念を抱いている。
肉体は、ときにエゴを強める。
しかし同時に、大願をこの現実の中で歩むための、かけがえのない器でもある。
だからこそ、護るべきものなのだ。
護持とは、特別なことではなく、日々の習慣にあるのだろう。
そう考えていくと、妻から大切なメッセージをもらっていることに気づいた。

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