たとえば山を為るが如し。 未だ成らざること一簣なるも、 止むは吾が止むなり。 たとえば地を平かにするが如し。 一簣を覆すといえども、進むは吾が往くなり。
たとえば山を作るようなものだ。
あと一杯の土で完成するところまできていて、やめてしまうのは自分に責任がある。
たとえば自然を平らにするようなものだ。
まず一杯の土をあけただけでも、それを進めたのは自分なのである。
(「実践・論語塾」安岡定子著)
はじめての一歩。
さいごの一歩。
その重要性を伝えている。
どんなに小さくても、まず一歩踏み出さないと、何もはじまらないし、
仕上げの最後の一歩をやりきらないと、結局完成もしない。
そして、その一歩の責任があるのは自分自身なのだと。
いまの時代、はじめの一歩の重要性はよく語られる。
まず動け!と。
しかし、さいごの一歩をどのようにすべきかはあまり語られないのではないだろうか。
仕事の最後の5分をどう過ごすか。
プロジェクトの最後の一歩で重要なことは。
就寝前はどうか。
それよりは、
朝の過ごし方。
仕事をはじめる最初にすべきことは。
プロジェクトをスタートさせるはじめの一歩
みたないところにスポットがあたる。
にもかかわらず。
にもかかわらずだ。
人生の最期、「終活」についてはよく語られる。
興味関心がある人も多いと聞く。
これはとても不思議な時流だ。
確かに時代が変革期であり、正しい答えがないからこそ、何がゴールであるのか、最後の一歩も分からない。
だからこそ、最後にこだわらずに、最初の一歩が重要視されるのかもしれない。
まず、やってみること。でなければ何もわからないと。
それは間違いではない気がする。
では、はじめてはみたものの、イメージと違い、やめる決断をした時に、
その最後の一歩はどうあるべきか。
そこは、重要ではないのだろうか。
そして、人生の最期である。
なぜか、終活に対しては、みんな興味がある。
人生の最期ぐらいは、理想とするカタチにしたい。
残された人へ迷惑をかけたくない。
そう思うのだろう。
終活とは、自分の命の長さに関わらず、どんな未来にしたいのかという志を定めることなのではないか。
50年後、100年後にどんな希望のバトンを次の世代に渡すべきか。
それを毎日、一分一秒とも忘れずに生きる。
その生き様ができたとき、敢えて、残されたものへの準備をすることなく、それは常に日々の実践の中で行われることなのではないか。
志に正直に生きる。
それこそ、終活なのではないか。
志に生きることは
最初の一歩と最後の一歩を
自然に丁寧に真剣に歩むことにつながる気がする。
この章句の良さは、順番であり
①最後の一歩
②最初の一歩
というところだ。
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