第16講 一道をひらく道(Ⅰ)
明治以降国民教育の制度が完備するに至って以来、身をもって一道を切り開いた一人の巨人があるを知らない。他の領域では輩出されている。
それはいったいなぜか?
そんな問いかけがある。
これはまさに今ぼくが熱中している「安岡郷学」にヒントがあるのかもしれない。
安岡郷学には、学問とは二つあると書かれてある。
一つが、理法の真理を探究する学問、もう一つが、修養の学問だ。
明治以降の学問において、片方の学問だけが取り扱われたところに問題があったのかもしれない。
また、
自分という小さな一つの石でも、国家民族に対して、他の何人に委せられない唯一独特の任務と使命とがあるはずだ。
と書かれてある。
任務と使命とは、自分が見つけるものではなく、頼まれごとなのではないか。
その頼まれごとを任務であり使命であると自覚できるかどうか、ここが重要な気がした。
この「自覚」というところも教育の中で見落とされてきた部分なのかもしれない。
人間もこの自分という一微小存在すら、国家全体に対しては、代理人のない一個独自の任務の存することを自覚するに至って、初めてわれわれの真の人生は始まるわけだと。
自覚とは?
① 自ら迷いを断って悟りをひらくこと。(仏教的)
② 自分のもっている知識が真理かどうかを反省し、吟味すること。(哲学、心理学的)
③ 自分をはっきりつかむこと。自分自身の置かれている状態や、能力、価値、使命などを認識すること。(哲学、心理学的)
③ 自分の知覚でとらえること。
という意味があるようだ。
この自覚という世界があってこそ任務と使命にたどり着く。
教育とは本来そこに至る過程のものなのかもしれないが、そこが抜けていたのかもしれない。
今、起業するという方法が、この任務と使命を自覚し、自分を生きる道のような空気があるが、もっともっと多様な道があるということを世の中に伝わり、選択できるようになるといいな。
そして、この明治以降に教育界から巨人が現れない理由を、多くの方が議論することはとても重要なことのように思えた。
真の人生ははじまっているのだろうか。
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