人は自ら信ずるところがあってこそ、初めて真に謙遜にもなり得るかと思うのです。
謙遜という徳は、相手に対する自分の分際というものを考えて、相手と自分との真価の相違にしたがってわが身を省み、さし出たところのないようにと、わが身を処することを言うのであります。
真の謙遜とは、結局はその人が、常に道と取り組み、真理を相手に生きているところから、おのずと身につくもの
謙遜というひとつの徳目にも、これだけ大きな意味があるとは思いもよらなかった。
しかも人に対する態度ではなく、常に道と取り組んでいるかどうか。
それが謙遜の本質だという。
では道とは、どんな道のことをいうのだろうか。
それは今までの修身の学びの中なるよう、人生二度なし、その真理をいかに深く向き合うことができるのか。
自分の一度きりの人生を尊く思えばこそ、人との出逢い、仕事への取り組み方に謙遜という徳が滲みでてくるのではないか。
では。
家族という関係性の中での謙遜はどうだろうか。
パートナーへの謙遜
親への謙遜
子への謙遜
家族の中は謙遜という徳は、成立するのか?
そもそも成立させる必要はないのか?
そこに確信をもてないのは、まだまだ道に取り組めてない証拠なのかもしれない。
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