top of page

謙遜

  • 執筆者の写真: yamashina shigeru
    yamashina shigeru
  • 2020年8月7日
  • 読了時間: 1分
人は自ら信ずるところがあってこそ、初めて真に謙遜にもなり得るかと思うのです。

謙遜という徳は、相手に対する自分の分際というものを考えて、相手と自分との真価の相違にしたがってわが身を省み、さし出たところのないようにと、わが身を処することを言うのであります。

真の謙遜とは、結局はその人が、常に道と取り組み、真理を相手に生きているところから、おのずと身につくもの

謙遜というひとつの徳目にも、これだけ大きな意味があるとは思いもよらなかった。

しかも人に対する態度ではなく、常に道と取り組んでいるかどうか。

それが謙遜の本質だという。


では道とは、どんな道のことをいうのだろうか。

それは今までの修身の学びの中なるよう、人生二度なし、その真理をいかに深く向き合うことができるのか。

自分の一度きりの人生を尊く思えばこそ、人との出逢い、仕事への取り組み方に謙遜という徳が滲みでてくるのではないか。


では。

家族という関係性の中での謙遜はどうだろうか。


パートナーへの謙遜

親への謙遜

子への謙遜


家族の中は謙遜という徳は、成立するのか?

そもそも成立させる必要はないのか?


そこに確信をもてないのは、まだまだ道に取り組めてない証拠なのかもしれない。

最新記事

すべて表示
不滅の火は、誰のものか

修身を学ぶ会富山 第3講 古人に学ぶ 森先生の言葉に触れると、自然に心が熱くなる。 われわれがこの二度とない人生を、真に徹底して生き抜こうとすると、何よりもまず古人に学ぶ処がなければならない。 偉人とは、永い生涯を、真に生命がけで徹底的に生き抜いた人々だ。...

 
 
 
言葉の奥にある重みにたどり着く。

修身を学ぶ会富山 第7講 大志を抱け 「立派な先生になる」など、ていのよい逃げ言葉だ。 今回は、この言葉に心が動いた。 便利な道具が目の前にあると、どうしてもそれに頼ってしまうものだ。 そのひとつに、AIがある。 言葉にできそうで、できないこと。...

 
 
 
意図せず世代を超える

修身を学ぶ会富山 修身教授禄続 第2講 立志 「死後に生きる」というテーマに対して、すごく共感していた時期があるのだが、一度躊躇した時がある。 「人生二度なしという覚悟で生きているが、死後に何かを残す生き方は選びたくない」 そんな声を聴いた時だ。...

 
 
 

コメント


bottom of page