雨の降る中、京都へ。
親子論語塾の日でした。
書は「禮」。規範のことです。
いつもはお寺の畑の傍で論語を素読するのですが、雨ということで本堂で行いました。
本堂には電気はありません。
雨の音、風、少ない太陽の光。
わずか100年前もそうだったように、屋根はあるが、自然の恵みだけの環境で素読を行います。
子曰く、
仁遠からんや。
我れ仁を欲すれば、
斯に仁至る。
最初の素読で最後に読んだ章句。
「仁」が3回も出てきます。
仁は遠いところにあるのではなく、近くにあります。
仁は、生まれながらにしてもっているもの。
仁が必要だと願えば、その願った心が、もうすでにあなたの仁を育ててますよ。
そんな章句です。
「仁」という漢字は、二人(ふたり)と書きます。
自分以外の相手がいる。
その人を無視してもいいのだけど、やっぱり気になるもの。
「どんな人なんだろう」
「どこから来たんだろう」
「何を考えているんだろう」
こんな風に相手のことを考えること。
これがもう「仁」を表現していることになる。
相手がいなくても「仁」は磨くことができます。
「次の人が利用することを考えると、どうすればいいだろう」
例えば、トイレのスリッパを揃える。
席を離れる時は、椅子をひいておく。
これも、大切な仁。
この仁の中に「恕」があります。
恕は、相手の気持ちと自分の気持ちを同じにすること。
子曰く、
其れ恕か。
己の欲せざるところ、
人に施すこと勿かれ。
恕とは、自分がしてほしくないことを相手にしてはいけない。
以前、こんな質問を受けたことがある。
「自分がしてほしくないことでも、相手にとっては、してほしいことがあるのではないか」と。
確かに、ひとりひとり多様な価値観を持っているだろうし、実際そうなのかもしれない。
でも、恕とは「相手の気持ちと自分の気持ちをひとつにする」と考えると、納得できる。
今日、末っ子が発表に選んだ章句はこれ
自分より素晴らしい人は師になるし、そうでない人も師となるのだ。
これも広い意味で「仁」につながるなと感じた。
目の前の人のことを慮る。
それがすでに「仁」を育てることになり、師ともなる。
Comments